延焼日記
2019-07-02T21:55:43+09:00
hiromi_machiyama
放送作家・町山広美の日記
Excite Blog
映画レヴュー 『スケート・キッチン』
http://machiyama.exblog.jp/27671671/
2019-07-02T21:54:00+09:00
2019-07-02T21:55:43+09:00
2019-07-02T21:54:20+09:00
hiromi_machiyama
未分類
『and GIRL』2019年6月号掲載
映画の目利きでもあるミウッチャ・プラダ率いるMIU MIUの、短編映画プロジェクトで制作された 12分の作品が、本作の母体です。
スケートボードが大好きな女の子。
スケボーパークは、男子ばかりで、ミスる自分に彼らの笑いが突き刺さる。
でもチャレンジ。
でも転ぶ。
そこへ差し出された手と、「あんた、いい感じだよ」の声。
味方がいる。女の子スケーターのチームだった。
MIU MIUのドレスをスケーター流に着こなし、スケボーで舞い踊る女の子たちが美しく、熱い気持ちにさせてくれた短編が、106分の青春映画になりました。
鮮烈でリアルであたたかく、新しい。
『スケート・キッチン』は、実際にニューヨークで活動する女子7人のスケーターチームの名前です。
「女性はキッチンにいるべき」なんて硬直した考えは、スケボーではね飛ばしてやろうと結成。
主人公のレイチェルをはじめ、実際のメンバーが自身を演じています。
ジェイデン・スミスは、この映画には数少ないプ口の俳優。
父親ウィル・スミスと同様に俳優&ラッパーとして活躍するティーンのカリスマですが、スケーターとしてのレイチェルのインスタをフォローしたのが、キャスティングのきっかけだとか。
そのレイチェル演じるカミーユは、ニューヨークの郊外に住む17歳。
ママと2人の暮らしは息苦しくて、スケボーに熱中していたい日々。
でも、ある日ケガをしてしまい、ママからスケボー禁止の命令が。
隠れてやるしかないと、少し遠征したスケボーパークで、「スケート・キッチン」のメンバーと知り合う。
ママがイラついてる自宅のキッチンに比べて、このキッチンはなんて居心地がいい!
友情を深め、今まで 知らなかった感情を知っていく。
恋愛もそのひとつ。
でも、周りの男女や女女のカップルを見ていても、恋する気持ちがよくわからない。
そんなとき、ジェイデン演じる男子と距離が縮まって、気が合う。
楽しい。
でも、そのことが周囲と力カミーユ自身によくない変化ももたらして。
この映画では、スケーターの演技や表情が自然で、言葉に心が宿り、それぞれの個性が光っています。
監督・脚本のクリスタル・モーゼルは 30代の女性で、ドキュメンタリーで活躍。
メンバーに取材し、ともに生活し、メンバーの経験をもとに脚本を作り、撮影しながらドラマを固めていった、その手法だから実った結果だと思います。
また、スケーターたちのあり方や考え方を内側から見つめた映画だから、スケボーの、他の遊びやスポーツとは違う特性も、芯を捉えて見せてくれます。
各自の技術を競うけれど、相手を倒すことを必要としない。
パークで、さらには撮り合った映像で、スケーティングのアイデアや技術をお互いに賞賛し合う文化。
でもその一方、お互いの賞賛は男だけのものでした。
そんなの変だよ、と滑り出す女の子たち。
パークで孤独だった女の子たちの結びつき、連帯がかっこいい。
さらにはそれが、パークだけでなく社会全体にもあることだ、そこまで映画の視野に入っています。
男か女か、二極で対立したり恋愛したりしかできないっておかしいよね、とドラマで描いてみせます。
カミーユが、自分は女で、女だから男と同じようにはできないと決めつけられるのを納得できない、その悶々を「イエローが好き」と表現するのもいい。
男の子の色=ブルー、 女の子の色=ピンクでもなく。
若さのきらめきから、新しい価値観、考え方が見える。
素晴らしい青春映画、未来の光が届く映画です。
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映画レヴュー 『Girl /ガール』
http://machiyama.exblog.jp/27671660/
2019-07-02T21:43:00+09:00
2019-07-02T21:49:09+09:00
2019-07-02T21:43:21+09:00
hiromi_machiyama
未分類
『and GIRL』2019年7月号掲載
男の子の身体に入って生まれてきたけれど、このいれものは違う。
女の子の身体が、私のはず。
その強烈な違和感で張り裂けそうになっている15歳のララが、『Girl』の主人公です。
それだけ聞くと、ララの違和感と周囲の無理解が衝突する物語を想像しますが、この映画では、父親はその違和感を理解しています。
そして、ララには夢が。
バレエのトップダンサーになること。
もちろんバレリーナ、女性ダンサーとして。
バレエ大国ベルギーで、レベルの高いバレエ学校に編入。
環境は整ってる、あとはがんばるだけ。
そう見えますが、ここから細やかに物語を作ろうと挑んだのが、ルーカス・ドン監督。
整った顔立ちのまだ20代、この長編デビュー作がカンヌ映画祭で受賞、一躍スターに。
子どもの頃に「女の子っぽいこと」を好む様子を笑われ、そんな自分を封印した経験があると語る監督が自ら書いた脚本のアイデアは、地元の新聞記事から。
男の子の身体でバレリーナを目指す15歳のノラ、自らのセクシュアリティを公表して夢に挑んでいる。
その勇気ある存在がきっかけだからこそ、カミングアウトをめぐる混乱や対立のさらに先を描く物語に。
ララを演じるのは、自身もバレエ学校に通うダンサーのビクトール・ポルスター。
透けるような美しさの彼はトランスジェンダーではなく、女性として踊った経験ももちろんありません。
つまり、演技にもダンスにも強い負荷がかかっていて、しかもこの映画は、ドキュメンタリー的な手法を取っていますから、「ララという女の子として存在すること」への要求は高度。
そのすべてに、彼は全身で応えています。
燃えるような強烈な自我と、危うく揺れる繊細な感情。
そして、その2つがぶつかりあったときの痛ましさ。
何度も、胸が詰まるような瞬間を表現してみせるのです。
監督は、自作にとって最高の宝を探り当てたと言えます。
ララは希望したバレエ学校に編入。
職を変えてまで応援してくれる父親と6歳の弟と引っ越してきて、新生活が始まる。
性転換手術への準備もスタート。
成長を待って行うため、ホルモン治療から、慎重に。
けれども15歳の心と身体の変化は著しく、ララは男性になり始める身体と、それを望まない心で引き裂かれそうに。
身体の変化はバレリーナとしての鍛錬にも焦りを招き、同級生も思春期の只中にありライバルでもあるから、悪意の自覚なく「シャワー浴びないの?」などとララを追い詰める。
恋愛はまだ考えない、と思っても 自分でコントロールできることじゃない。
芽生える欲望はあって、でも頭も心も追いつけなくて。
苦しんで、苦しんで。
それでもララにはバレエの舞台に立つ夢が。
この映画を観ていると、ララと条件や程度は違っても、心と身体の変化や矛盾に苦しんだあの頃が、思い出されてくるはずです。
思春期ってしんどい、苦しい。
親の理解があっても、その苦しさには変わりなく。
父親を一度も敵対的な位置に置かないこの映画には、親との対立が当たり前でなくなった若い世代ならではの視点を感じます。
わかりやすい敵を置かないこともそうですが、ドラマを盛り上げるお定まりの方法を慎重に避けるのが、この映画の特徴。
それだけに、ことが起こった際の衝撃は大きく、思わぬ展開が待ってもいます。
男の子の身体でバレリーナを夢見るという特有の状況が逆に鮮明にするのは、思春期の苦しさ、という普遍。
その痛ましい輝きに、目も心も奪われます。
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映画レヴュー 『COLD WAR あの歌、2つの心』『メモリーズ・オブ・サマー』
http://machiyama.exblog.jp/27671644/
2019-07-02T21:35:00+09:00
2019-07-02T21:48:42+09:00
2019-07-02T21:35:16+09:00
hiromi_machiyama
雑誌原稿アーカイヴ
ポーランドの名産品は 琥珀と刺繍と映画監督
アウシュビッツ強制収容所の所在はポーランドであり、ナチス・ドイツが去って戦後は、ソ連の支配下に置かれた。
ソ連崩壊後の現在、EUの大統領をポーランドの大統領が兼任している。
ほんの100年弱を振り返っても、この流転。
そんなポーランドが世界に誇る名産は、映画監督だ。
ワイダ、ポランスキー、スコリモフスキ。
映画への信頼と切望と。
数々の賞に輝き、その名産の列に加わるパヴェウ・パヴリコフスキ監督の新作『COLD WARあの歌、2つの心』 は、88分の濃密なラブストーリー。
唄声から始まる。
スターリン独裁下のソ連の指示で、ポーランドでも民族性への回帰が進められ、民族舞踏団を結成するため、農村の唄自慢が集められる。
その中に、ズーラがいた。
他の娘たちの純朴からハズれた、色気と自信。
指導者であるはずのピアニストのヴィクトルは、一瞬で心をつかまれる。
それから15年の激しい愛の成り行き。
ソ連に振り回されるポーランドの政治情勢が、影を落とす。
密告、亡命、裏切り、再会、すれ違い、再会。
痛めつけ合っては惹かれ合う、離れがたい二人。
混ぜたら危険、なのに混ざらずにはいられない。
監督はこの物語を、「とにかくどうしようもなかった」と振り返る自身の両親の関係を母体に、書き上げたと言う。
そして選んだ手法は、その愛の歳月を断続的に描くこと。
映画は何度も黒く断絶する。
愛という理不尽を描くにはふさわしく、叙情は途切れるどころか濃厚に。
モノクロの映像は各カットが一枚の絵画や写真作品のようで、相手にのばす腕、憂いに湿った唇が強烈な印象を焼き付ける。
自分を失っても、という愛のあり方をズーラは許容しない。
絶対に自分を手放さず、絶対に相手を求める。
心は一つにならず、二つのまま求め合う。
10代からの15年、それぞれのズーラの輝きと陰りを演じわけるのは、ヨアンナ・クーリク。
その変貌ぶりと、邪気をはらんだ色気が素晴らしい。
そして、音楽だ。
民族舞踏団で唄われる故郷の歌「2つの心」が、亡命先のパリではラブソングに。
「オイオイオーイ」とも「オヨヨーイ」とも聞こえるポーランド語で唄われるそのメロディは、映画がおわっても、心に響き続ける。
愛にうなされ、愛に危険運転をされる。
愛が奪うのは相手ではなく、自分だ。
見えない獰猛な怪物、としての愛。
それを見せてくれるのが映画なのだと、この映画は確信させる。
そのラストシーンから10年余りを経た70年代末の夏を、『メモリーズ・オブ・ サマー』は描く。
ポーランドが位置するのは、北海道より北、夏は短く、待望される。
けれど、12歳の男の子ピョトレックは憂欝だ。
高度成長に沸き、父親が外国へ出稼ぎに行ってしまったから、だけではない。
美しい母を僕が守るはずなのに、様子がおかしいのだ。
まるで、夏の観察日記のような83分。
キーアイテムは、この時代らしい流行歌謡とワンピース。
緻密にして正確、そして詩的な、特別な時間の記録。
12歳が感じる、母親の変化、不穏な気配。
田舎町の夏の退屈。
男の子同士の付き合いの厄介。
気になる女の子。
言えない言葉。
裏切り。
他者との境界。
自我の輪郭。
その混乱に臨場する映画だ。
美しい瞬間に、何度もまぶしくなりながら。
できごとを螺旋状に構成して連鎖させ、昆虫を捕まえるような繊細な息遣いと手つきで、大人の手前の特別な夏を映像に固定していく脚本・監督は、アダム・グジンスキ。
2本の映画ともに、ラストシーンが鮮烈だ。
ひとつの言葉、ひとつの動きに多くを託すことができる、映画の懐を彼らは信じている。
だから、とどく。
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映画レヴュー 『ドント・ウォーリー』
http://machiyama.exblog.jp/27594993/
2019-05-11T17:16:00+09:00
2019-05-11T17:38:30+09:00
2019-05-11T17:16:55+09:00
hiromi_machiyama
未分類
タイトルの『ドント・ウォーリー』に、
英語の原題では続きがあります。
訳すなら「大丈夫、遠くまで歩いてけやしない」。
これは、事故に遭って車椅子生活になった漫画家ジョン・キャラハンご本人が、そうタイトルをつけた回想録の映画化です。
映画の中で使われている彼の漫画でも、このセリフを、追っ手のカウボーイたちが置き去りになった車椅子を見て言います。
なんて苦い。
でも自虐におさまらない、痛快さも感じとりたくなりませんか。
「脚で」は行けないとしても、「頭で」ならば、どこへでも。
そういう意味もあるかもねという思いは、映画を観終わると、確信に変わります。
実際、キャラハンは車椅子生活になってから、新聞のひとコマ風刺漫画家としてデビューしたのですし。
演じるのは、ホアキン・フェニックス。
その暗く悲しい瞳で、キャラハンが自分を持て余している人物だと感知させます。
胸から下が麻痺の重傷を負ったのは、バカげた事故のせいでした。
ひどいアル中で、友人と泥酔して遊びまわった、その結果。
歩けないし、アル中だし。
そこから、彼は自分をどう立て直すのか。そもそも彼はどうして、酒に溺れてしまったのか。
自己否定におびえ、怒りで何重にもガードを固め、こんがらがっていたキャラハンが、すこしずつほぐれ、肩におかれた誰かの手の温かさを感じられるようになるまでを、映画は丁寧に描いていきます。
この回想録の映画化はもともと、コメディアンからスタートして人気俳優になったロビン・ウィリアムズが熱望。
キャラハンと同じ街で暮らす、友人のガス・ヴァン・サント監督に相談していました。
猛スピードで車椅子を走らせる姿を、監督が実際に近所で見かけてもいたから。
しかし、ロビンは自らこの世を去ってしまいました。
あらためてこの企画に向き合った監督は、ホアキンを主役に。
ドラッグの過剰摂取で23歳で逝去した、ホアキンの兄のリヴァーも、監督の作品に主演、友人でした。
もう会えない人たちへの思いが、かけられなかった言葉が、この映画には織り込まれているのです。
ジョナ・ヒルとジャック・ブラック、コメディアン出身の2人のキャスティングにも、ロビンの影が見えます。
ヒルが演じるのは、断酒会を主催する富豪。
世を俯瞰する不思議な佇まいに、すっかり痩せてちょっと美形になった容姿が相まって、なんとも色っぽい導師に。
彼は、12のステップを提示して、キャラハンを導きます。
例えば、何を神様だと思ったっていい、ホラー映画のキャラクターだっていい。
そう言って、神の前の自分の無力を心得ることに意味があると教えます。
すべての人に、助けが必要。
弱さを自覚して助けを求められれば、助けを得て、強くなれる。
キャラハンが、困らせ悲しませた人々に次々会いに行くステップは、どこか現実味が薄く撮られていますが、わかってくるのは、彼の悲しみの根っこは、生まれたそのことにある。
でもそれは、幼少期母親に捨てられた怒りよりも、生まれてしまった自分の存在が母を苦しめたのではないかという思い。
だから彼には、誰かに許されることが必要でした。
「許せない」は「許されたい」の後ろ姿なのかもしれません。
「ドント・ウォーリー=大丈夫」は、許しと受け入れを軽やかに表明する言葉でもあり、抱き寄せて背中をぽんぽんするときに思わず出る声でもあり。
大事な人に示したい、示されたいのは、そういう気持ちだよね、とこの映画は観客と、もう会えない人たちに伝えてきます。
追記/
キャラハンの風刺漫画家としての活躍は80年代に始まり、読者のモラルを揺さぶる狙いとはいえ、性差別的な展開をするネタも少なくなかった。この映画はその点をスルーせず、ぴしゃりと言及するシーンをつくっている。「当時のことだから」では、済まさない。
実話という過去を映画に仕立てる際に、そうした目線はとても重要だと思う。
クリント・イーストウッド監督の最近の作品をきっかけに、「実話の再現」の身勝手について考えていることもあり、この映画がそこで逃げをうたないことに感銘を受けました。
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映画レヴュー 『ビリーブ 未来への大逆転』
http://machiyama.exblog.jp/27594967/
2019-05-11T16:57:00+09:00
2019-05-11T17:02:41+09:00
2019-05-11T16:57:33+09:00
hiromi_machiyama
未分類
Tシャツにもマグカップにもワークアウト本にも物真似ネタにもなっている、現代アメリカのアイコン。それはコミックのスーパーヒーローではなく、もうすぐ86歳になる女性。
『ピリーブ 未来への大逆転』は、そんな人物の伝記映画です。
RBGとイニシャルで呼ばれることも多いその人を描いた絵本の日本版タイトルは、『大統領を動かした女性ルース・ギンズバーグ 男女差別とたたかう最高裁判事』。
女性として史上2人目の最高裁判事で、在職25年以上。お堅い法衣に、白いレースの襟飾りをあしらうのがお決まりの、おしゃれなマダムです。
アメリカの最高裁判事は9人ですが、ルースに集まる人気と信頼は圧倒的。昨年体調を崩した際は、その無事を祈ってクリスマスツリーにルース人形を飾るブームが起きたほどでした。
最高裁判事の任期は終身で、任命するのは大統領。トランプ大統領のもとで3人が交代、もしルースが去ると、判事9 人の構成に思想的な偏りが強まる懸念からも、彼女の存在は「トランプ的なアメリカを望まない」「公正で平等な社会を希求する」人たちにとって、頼みの綱であり希望であり。
そんなヒーローの20代30代はどんなだったのか。ご本人の甥が脚本を書いたこの映画は、ハーバード大学法科大学院の入学式から始まります。
時は1956年。超名門校の500人の学生のうち、女性はたったの9人。
男性エリートの育成を目指して運営され、女性は想定されていない状況。しかもルースは、子育ての真っ最中にあって。
貧しい家庭に育ち、母親を早くに失い、必死に勉強してきた彼女は、大学で出会い、結婚。この夫が、料理の苦手なルースをキッチンから遠ざけて得意の腕を振るい、子育てに当たり前に参加、妻の才能や活躍を素直に喜べるという、なんとも理想的なお方。
しかも演じるのは、育ちも顔立ちも整いすぎるほど整っているアーミー・ハマーゆえ出来過ぎとひがみを言いたくなりますが、こういうお相手を見つけられるのもまた、ルースの才能であり賢さなのかも。
でもどんなに優秀でも、自分のいる社会や時代を選ぶことはできません。
ルースは学内では女だからと教官たちに軽んじられ、それでも猛勉強してトップの成績で卒業したのに、就職できない。次々に断られてしまって、目指していた弁護士になることができない。
その理由の一例が、もし女性を会社に入れて一緒にがんばると「奥さんたちが嫉妬するから」。
これ、男性の多い職場に女性が加わるときの、意外なあるあるです。「あなたや奥さんが思うほど、あなたは男性として魅力的じゃないですけど」と言ってやりたくなる、腹の立つ言いがかり案件。
ルースはそうした自身の体験からやがて、女性そして立場や力の弱いあらゆる人が不当に扱われている現状を変えようと活動を始めていきます。
けれども、70年代の社会 はまだ、女性を差別していることにさえ気づけていません。先の見えない闘いを、彼女はどうして続けることができたのでしょうか。
監督のミミ・レダーも女性です。今でも女性が少ない撮影技師を志し、職人的な監督としてキャリアを積んできた60代。ルースの苦闘に、自身の経験を重ねたに違いなく。
ルースが大切にしているのは、「疑問を持ち続ける」こと。疑問を持てば、学びたくなる。夫からも娘からも学べる。この映画はヒー口ーを、学び続ける人として描きます。
疑問を手放さない、そこからなら偉大な先輩を真似できるかもしれないと勇気が湧いてくるはずです。 ]]>
アニエス・ヴァルダ監督『顔たち、ところどころ』パンフ
http://machiyama.exblog.jp/27528559/
2019-03-29T21:42:00+09:00
2019-03-29T21:42:44+09:00
2019-03-29T21:42:44+09:00
hiromi_machiyama
雑誌原稿アーカイヴ
『ふつうの人々のあたりまえの誇り』
ツートーン・マッシュルームカットの可愛らしいおばあちゃん、な見た目に安心してはいけない。
これは切れ味の超鋭い、天才 の仕事。
まぎれもない傑作だ。
共作クレジットになっているが、『顔たち、ところどころ』は今年90歳になるアニエス・ヴァルダの、幾多の輝かしい仕事の新たな頂点と言える。
映画を仕掛ける、現場で起きたことを余さず的確に撮る、自在に編集する。
各段階での発想の豊かさ自由さ巧みさが凝縮された、映画エッセイにして、アート製作ドキュ メンタリー。
「ヌーベル・ヴァーグの祖母」という形容詞が後付け、追っかけにすぎないことが、よくわかる。
そもそものちに整理される「新しい」は、アニエスの身の内にあったのだ。
54歳年下の男子アーティストJR との出会いから映画は始まる。
はずが、まずひとひねり。
その遊びで提示された、出会いの得難さ、奇跡の一回性が、この映画を柔らかく貫き、やがて帰着する見事な構成なのだが、まずはひとつひとつのエピソードを楽しみたい。
JR は、社会的な問題を擁する場所でそこに暮らす人のポートレートを大きく貼り出す、という作品を発表してきた。
そんな彼を、アニエスはふつうの田舎町、フランス各地へと連れ出す。
農家、港湾労働者、工員。ふつうの人の、人生の凄み。
思わぬ金言。
初対面の会話からそれを引き出してしまうアニエスは、さらには少々の演出を仕掛けて、演劇的で象徴的な場面もつくりだす。
JR の写真が加わると、さらに事態は変化する。
アートが、心動かす瞬間がつくりだされる現場を続々と目撃させられて、クラクラしてくる。
田舎町のふつうの人たちからひきだされる、「ストをする自由」「あなたも主張し続けて戦って!」の言葉。
フランスらしい、と言えばそうだが、それをひきだし編集で選択するのは、アニエスだ。
軽やかに始まった、アニエスとJR の田舎さんぽが、自由や人権、大きなテーマに手を広げていく。
いや、手を広げるのではなく、それらが生活のうちに含まれているのが当たり前、というのがアニエスの考えなのだと思う。
ふつうの人が自分の仕事や生活に持っている誇り。敬意をもってそれを撮る、聞く。
その誇りを顔として、大きな写真に掲げる。
二人はそんな仕事を重ねて、旅をしていく。
アニエスは老いの実感を隠さず、その素顔をあらわにしていき、思い出に繰り返し立ち止まる。
そして、JR と同じ黒眼鏡の男にして若き日の友人、映画の革命児ことジャン・リュック・ゴダールを訪ねるのだが。
その結末にあっけにとられ、たちあがってくるのは、人生の一回性、すべての時間への愛おしさだ。
戻らない、失われる。
だからこそ、各々の瞬間を、人との出会いを、自分自身を大切にし、誇り、他人のそれにもまた敬意をもたなくては。
甘哀しいギターが響くエンディング、胸がいっぱいになる。
(『I n Red』2018 年 9月号からパンフレットに転載)
アニエス・ヴァルダ監督、ありがとうございました。
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映画レヴュー『ヴィヴィアン・ウエストウッド 最強のエレガンス』 『ザ・スリッツ:ヒア・トゥ・ビー・ハード』
http://machiyama.exblog.jp/27316446/
2019-01-01T21:03:00+09:00
2019-01-01T21:03:17+09:00
2019-01-01T21:03:17+09:00
hiromi_machiyama
雑誌原稿アーカイヴ
好きな服を着よう
自分が好きな服を
ココ・シャネルがジャージ素材を採用した時。
マリー・クワントが、ミニスカートを提案した時。
女の服装が「あるべき姿」からはみだすと、社会は嫌悪で迎えた。
見える景色が変わることに、社会の変化を察知するからだろう。
女は景色じゃないのにね。
だからこそ、ファッションは面白い。
自分が着たい服を着るのは、けっこう大事なことだ。
70年代のはじめにロンドンで音楽と同時発生で生まれ、今はファッション においてジャンルやテイストのひとつに落ち着いているパンクは、登場した時、 社会からとりわけ嫌悪された。
そのファッションの生みの親で、以降40年、最前線に居続けるその人に3年間密着したドキュメントが、『ヴィヴィアン・ウエストウッド 最強のエレガンス』だ。
全部見せてくれる。
なにしろ、ブランドのコレクションは現在、ヴィヴィア ン自身は指揮にまわり、25歳年下の夫アンドレアスがつくってること、元は彼女の教え子だった夫が現場を率いるのにスタッフが不満を持っていることなんかが、明かされてしまうのだ。
そしてこの映画は、ヴィヴィアンが拘束衣をヒントに発明し、セックス・ピストルズのメンバーが着て社会に衝撃を与えたはずのその服が、今や博物館に保存され、学芸員がうやうやしく開陳するその様子に荘厳なクラシックを流して、なにやら茶化してみせもする。
偉業だけれど、これって死体だよね、とでも言いたげに。
ヴィヴィアン自身も、パンクは、唾する者も受け入れる英国社会の懐の深さを喧伝しただけ、社会を変えられなかったと振り返る。
では諦めたのかといえば、全然違う。
最近もデモの先頭に立ち、熱心な活動 でスタッフを困らせたりしている。
周りにモデルがいようと、その場で一番、自分の服をかっこよく着こなしているヴィヴィアン77歳。
ビジネスの巨大化グループ化が進むファッション界で、DIY=自分で作るというパンクの精神を譲らず、独立して事業を続けられているのは、過去の二人の夫との間の息子たちも、52歳の時に結婚した年下夫も彼女への敬愛を深めるばかりなのは、なぜか。
だんだん見えてくる。
今も店に自転車で通うように、自分の頭で考え続けて、安住しない。
ヴィヴィアンの信条は、疑問を持ち続けて、かかわり続けること。
それは、自分自身を手放さないための確かな方法だ。
二人目の夫マルコム・マクラーレンが、 夫婦で経営する店「SEX」の店員と常連を束ねてピストルズをつくった頃。同じくロンドンで、「バンドをやりたい」と動き出してる女の子たちがいた。
76年に結成された、世界初の、女の子だけのパンクバンドをそのはじまりからたどるドキュメンタリーが『ザ・スリッツ:ヒア・トウ・ビー・ハード』。
スリッツが意味するのは、女性の身体の真ん中に開いてるあの部分でもあり。
バンドの支柱、ボーカルのアリ・アップは、結成当時14歳だった。
残っている映像はあまり多くない。
「歴史から消された」と研究者の女性は憤る。
あらゆる権威に歯向かうはずのパンクは、暴力性を高めるうちに男性優位主義を強め、ナショナリズムにさえ接近していった。
スリッツは短い活動期間ながら、自分たちの音楽を探し、ステージで踊りまくり、レゲエやエスニックなサウンドにも自由に触手を伸ばしていく。
闘いながら。
ベースのテッサが部屋でスクラップブックを読み返す様子を親密な縦糸に、みんなに「できる」と思わせてくれた、亡きアリ・アップという中心の空白に収斂していく構成に愛がある。
女の子が好きな服を着てるだけで殴られた時代に、好きな服を着て言いたいことを言うんだ!と闘って、自分たちだけの表現を探し続けた。
勇敢な、世界初の行動は、現状に疑間を持つ後輩たちを鼓舞し続ける。
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映画レヴュー 『アリー/スター誕生』
http://machiyama.exblog.jp/27313167/
2018-12-30T22:17:00+09:00
2019-01-01T21:41:12+09:00
2018-12-30T22:17:59+09:00
hiromi_machiyama
雑誌原稿アーカイヴ
『スター誕生』は、歴史の浅い国そして映画の国、アメリカにおける神話です。
1937年に映画『スタア誕生』が作られ、リメイクは54年、76年、そして『アリー/スター誕生』が3回目。
そのストーリーをヒントとする映画も、近年の『ラ・ラ・ランド』など多数。
アカデミー賞受賞作にもたくさんあります。
そんな神話の再生ゆえ、主演ビヨンセ&監督クリント・イーストウッドという企画がながれた後、大いに注目を浴びて制作に。
もともと女優志望でもあったレディー・ガガがついに初の主演に挑み、監督は俳優としての成功は申し分ないものの、演出の力量は未知数のブラッドリー・クーパー。
その結果は、興行成績も評価も上々。
アカデミー賞ノミネートも確実視されています。
そしてこの映画、ちょっと意外な仕上がりです。
まず、神話のあらすじをあらためて。
手の届かない夢を諦めかけていた女性が、スターである男性に見出され、ステージへ。
彼女の才能は開花、大きく実っていきます。
互いの素晴らしさを他の誰よりもよく知るふたりは愛し合いますが、やがて人気が逆転。
男性はそれまでの活動で頼ってきたアルコールやドラッグに心身を蝕まれていて、その苦境はさらに深まり、やがて別れが。
オリジナル版では映画スター、76年版からミュージシャンの物語になり、今回も音楽業界が舞台です。
この物語は、主役の女優を輝かせる役どころとしても周知されています。
冴えないその他大勢だった女性が、どんどん輝いていくその変貌ぶり。
愛情にも恵まれる夢の日々で満たされたはずが、次第に傷ついていくその痛み。
さらには愛する人への献身、絶望、そして最後にどんな表情を見せるか。
見せ場がぎっしりの作品だからです。
しかも、54年版のジュディ・ガーランド、76年版のバーブラ・ストライサンドがそうだったように、すでにスターである女性が業界内恋愛を演じることの面白さ。
ご本人と役柄が重なる、きっとこんな恋愛も体験したに違いない、と少々下世話な興味を誘うのもこの映画のお楽しみ。
実に要求される要素の多い役柄なわけですが、ガガは満額回答。
歌唱はもちろん、演技も「ガガ様が演技してる」という雑音を感じさせません。
特に、怒りを表現すると輝いて、その熱には圧倒されます。
自身で作った楽曲も、器用にジャンルを横断しつつ心に刺さるもので、あらためてアーティストとしての懐の深さにうならされます。
そうなんですがこの映画、今までの3作と一番違うのは男性側の比重が大きく、終わってみれば、脚本作りにも参加したブラッドリー・クーパーが主役にさえ思えてくること。
冒頭は76年版のクリス・クリストファーソンへの憧れを隠さない、低い声を作ってのなりきりぶりにとまどいましたが、それをちゃんと自分のものにして。
さらにはその、もがき堕ちていくスターの背景を今までになくていねいに描いて、有名すぎる物語に新味を加えています。
ガガ率いる楽曲制作にも参加し、天下のガガ様と同様に、口パクなしの撮影現場でのナマ歌唱に挑み、なんと有名フェスのステージに上がってのなかばゲリラ的な撮影さえも。
完全に出演者目線で撮られたライブシーンは、とても新鮮かつ濃厚な臨場感。
女優を輝かせる神話で自分をかっこよく見せちゃうクーパーに、感服しました。
そしてガガ、演技も歌も素晴らしいだけに、この役そしてこの役を演じた先輩みたいに、私生活で苦悩を重ねずにすむよう、ついお節介な願いをかけてしまいました。
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映画レヴュー 『メアリーの総て』
http://machiyama.exblog.jp/27311844/
2018-12-29T23:59:00+09:00
2018-12-29T23:59:34+09:00
2018-12-29T23:59:34+09:00
hiromi_machiyama
雑誌原稿アーカイヴ
「若い女に絶望や苦悩は表現できないと思っているのですかっ!」
その咆哮に、心臓が凍りつく痛みと、血が湧き立つ情熱を感じるために、映画館へ走ってください。
これだけで伝わる人には十分伝わるはずですから、もう原稿を終わらせてもいいくらいですが、蛇足を書けば、これは200年前に、19歳の女性があげた怒りの声。
声の主は、メアリー・シェリー。
『フランケンシュタイン』の著者です。
その登場人物は世界に知られ、長く読み継がれ、書き込まれた思いが多くの人を刺激し続ける小説。
メアリーはわずか18歳のときに書き始めました。
何が彼女をそうさせたのか。
女性に投票する権利さえなかった19 世紀のイギリスで、この傑作の着想を得て、ついに書き上げるまでの苦悩と絶望と復活を描くのが、『メアリーの総て』。
史実に基づいています。
エル・ファニングが、メアリーに。
この映画が作られるときに彼女がまだ10代だったことを喜びたい、申し分のないキャスティング。
さらに監督は、映画館の設置が法で禁じられているサウジアラビアで「初の女性監督」になったハイファ・アル=マンスール。
彼女にとって、女性の権利や選択が大幅に制限されている社会は身近なものです。
映画は16歳のメアリーの、詩人パーシー・シェリーとの出会いから。
一目で心惹かれた彼は、父親に弟子入りしてくることに。
父親は書店を営みつつ、無政府主義をとなえる学者。
メアリーはそんな父親を慕いつつ、自分を産んで亡くなった母親に少しの罪悪感と多大な敬愛を抱いている。
女性の権利拡大を訴えたくさんの著書を残した急進的な思想家で、結婚についても独自の考えを持ち、両親は3人婚を。
今は、そのもう1人の妻や彼女の子どもたちと暮らしていて、居心地はよくないけれど、年齢が近い義理の妹は親 友のような存在でもあり。
メアリーはパーシーとの結婚を願うものの、彼には妻子が。
しかし身ごもり、妹もまた、現在の日本にも信奉者の多い大詩人に惹かれ、乱れた交遊で有名な彼と深い関係に。
メアリーは・パーシーとの間に、愛と信頼を実らせることができるのでしょうか。
愛も裏切りも次々と荒波のようにメアリーをのみこもうとしてくるなかで、世界を変える傑作はどのように書かれるのでしょうか。
メアリーはたくさんの死に立ち会います。
運命の過酷さには抗えないと、身をもって知ることに。
そして、強烈な喜びと苦しみをもたらして彼女を変えてしまうパーシーを、この映画はフランケンシュタイン博士と重ね合わせてみせます。
そう、フランケンシュタインとは死体をツギハギして作られた醜い怪物ではなく、怪物を作った博士のこと。
メアリーは自分のうちに身もだえる醜く破壊的な感情を怪物に託してもいたのでしょう。
小説『フランケンシュタイン』のタイトルは実は、『あるいは現代のプロメテウス』と続きます。
ギリシア神話で神の世界から火を盗んで人類にもたらす人類創造の神を、博士に重ねたのですが、メアリーもまたプロメテウス的な存在となりました。
この小説はSFの開祖と言われ、手紙で構成された形式もひとつの発明でしたし、悪が確定せず存在の不安を問う物語も新しく、後の小説や映画に絶大な影響を与えました。
この映画で語られない部分はありますが、恋愛のすったもんだを見届けつつ、冒頭の言葉に立ち合い、
さらに「●●が、私を創った」という至言にどうぞ圧倒されてください。
苦しみ憎しみに溺れたとき、浮き輪になってくれるはずです。
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映画レヴュー 『あまねき旋律』 『ニューヨーク、ジャクソンハイツへようこそ』
http://machiyama.exblog.jp/27310239/
2018-12-28T22:17:00+09:00
2018-12-28T22:17:17+09:00
2018-12-28T22:17:17+09:00
hiromi_machiyama
雑誌原稿アーカイヴ
『In Red』2018年11月号掲載
ともに生活すること
働くこと歌うこと
例えば、都心で生まれ育った私は1、 2カ月おきに数日間を那覇で暮らすことにして2年になるが、場所で人は変わると思う。
那覇の街猫は落ち着いていて、人が近づいても首をあげチラ見したらまた寝てしまうし、なんなくお腹を見せてくる。私もそんな感じになる。
でも、羽田を出たらもう、行列がもたつけば原因を探ろうとしてしまう。
よけいな恐怖心のせいだ。
『あまねき旋律』はインド東北部、ミャンマーとの国境近くにあるナガランド州で撮影された映画。
そこで暮らすナガ族、それは16以上の民族の総称で、州内のペク県の人々が歌う「歌」がこのドキュメンタリーの主役だ。
だが、インド南部出身で男女コンビの監督でさえ、各地の音楽を取材するうちこの「歌」を知ったという。
それほど知られていなかった。
美しい。
複雑な多声。
即興で瞬時に編み込まれては消える。
だってこれは、歌のための歌ではない。
歌い手は田畑で働く人。
急な斜面の棚田で過酷な農作業に励みながら、歌う。
だから、建築が生業で畑作業をしないある兄弟は歌えないと話す。
歌が作業をつくり、作業の単位となるムレの結束を確かにし、作業と生活の安全を知らせ喜び合う。
そしてこれは、ただ美しい棚田の景色と歌だけの映画でもない。
ナガ族には、首刈り族の異名もある。
独自の文化を持ちながら、イギリスの植民地支配、インパール作戦による日本軍の侵攻という経緯があって、やむなくインドの支配下に。
以来、半世紀以上も分離独立のための闘争が続き、拷問や強制収容、おそろしい弾圧を受ける間に、各民族の対立も複雑化していった。
知らない素晴らしい歌から、知らない歴史と現実へ。
どんどん知らない場所へ誘いだしていく構成がうまい。
数人に会話をしてもらう形式のインタビューも功を奏している。
お互いへの思いやりや愛情のあり方がわかってくる。
歌詞は「あなたがいなければ真実の愛は見つけられない」と訳されるが、これは私たちが簡単に思い及ぶ「あなた」や「愛」だけを指すだろうか。
作業の仲間、作物を実らせる命の営み、この世があること、万物を歌っているのではないか。
脱穀の作業、歌い踊っての楽しそうな人々を見て、落涙した。
満たされるとはこれかもしれない。
『ニューヨーク、ジャクソン・ハイツへようこそ』はニューヨークのクイーンズ区、ジャクソン・ハイツと呼ばれる地域で撮影された。
189分の街角ウォッチング。
特にスポットライトが 当てられる人物はいない。
古いアパートが立ち並び、住民の多くが移民。
167の言語が飛び交う。
「ここは真のアメリカというべき、人種のるつぼ」と、監督フレデリック・ワイズマンは解説する。
ナレーションなし、テロップなし、スタッフからのインタビューもなし、事前取材は最小限、取材と撮影の同時進行で撮りに撮ったフィルムを精査、編集で作品を作る。
という手法に徹し、たくさんのパワーある作品をつくったドキュメンタリー界の開拓者でトップランナーだ。
移民の街は今、再開発に揺れている。
どう自分たちの生活を続けていくのか。
それは政治にとどまらない日常で、解決は住民によって日々模索され、そこから金言がこぼれ落ちる。
移民は「奪いにきたんじゃない。命と汗を与えにきた」。
移民の理由を聞かれたら「選挙と答える。民主主義を理解してるってわかるから」。
子どもが地元の学校へ通えず外へ出ていくのは「頭脳の流出だ」。
ハッとさせられる。
生活を続けるためには、守るんじゃなくて、変える。
解決に近づけるために、進む。
欠落、不足という恐怖にとりこまれずに、さあ生活を続けよう。
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映画レヴュー 『アンダー・ザ・シルバーレイク』 『運命は踊る』
http://machiyama.exblog.jp/27165004/
2018-10-15T00:05:00+09:00
2018-10-15T00:05:56+09:00
2018-10-15T00:05:56+09:00
hiromi_machiyama
雑誌原稿アーカイヴ
闇の陰謀か 神の仕業か
生きづらさを生きる
もしもこの世のすべてがフェアに執り行われ、持って生まれた条件になんら左右されず、運にもいっさい翻弄されることなく、夢をかなえるために必要な情報もすべての人に等しく与えられているとしたら。
そこは天国のようで、地獄かもしれない。
願い通りに生きられない理由のいくらかを心の中で、何かや誰かや運のせいにして、私たちは正気を保っているのだから。
『アンダー・ザ・シルバーレイク』の主人公サムは、一目惚れをする。
監督か脚本家か、とにかく成功を夢見てハリウッドへ出てきたのに結果を出せない、家賃も払えない現実から目をそらしてくれる、夢の美女サラ。
あっけなく知り合うことができ、デートの約束を取り付ける。
でも、彼女は消えた。
なぜ消えたのか、サラは何者なのか。
なにやら大きく深い闇が見えてくる。
才能には秘密のからくりがあった、やっぱり。
金持ちは死に方を選べる、やっぱり。
その謎を解くヒントをサムは次々と見つけ、解読に挑むのだが。
ひどく奇天烈で、けれど切ないミステリー。
たくさんの名作映画、ポップカルチャーに読みつなげられる断片が全編に散りばめられ、それを読み解くのが楽しい映画だが、暗号にこだわらずに見ることもできる。
これは青春映画だから。
サムは長引いた青春の時間が終わることを感じて、もがく。
夢の美女は、故郷を出てきた頃の明るい希望の投影だ。
サム役を演じ映画を引っ張るのは、アンドリュー・ガーフィールド。
近年、心身ともにしんどい大作に次々主演してきたが、今回またも怪優への道をぐっと前に進めた。
監督・脚本のデヴィッド・ロバート・ミッチェルの前作は、大当たりしたホラー『イット・フォローズ』。
期待された次作で、こんなにも俺流の奇想をぶちまけるとは。
ホラーもミステリーも青春方向に引っ張ってしまうこの特性を、注視したい。
華やかな世界には裏があり、その仕組みは隠匿されている。
そう考えることは安らぎだし、処世術としても有効だ。
そして実際、この世はフェアではなく、事故は起こる。
戦争をしている国に生まれてしまったら、戦地に送られることもある。
戦地では事故も起こる。
『運命は踊る』は、戦時でなかったことはほとんどないイスラエルの映画だ。
ある夫婦のもとに、息子の戦死が知らされて、映画が始まる。
この冒頭から、見たことのない映像とその話法に惹きつけられる。
訃報にショックを受ける家族の、室内のシーン。
ただそれだけなのに、意表をつかれることの連続だ。
しかし、その死は誤報。
安堵する間も無く父親は、息子の呼び戻しを強く要求する。
ここまでが第一幕。
ギリシア悲劇を模した、三幕構成だ。
第二幕に登場するのは、兵士とラクダ。
息子は検問所にいた。
兵士たちはみな若い。
通行する車を止め、身元確認の取り調べを行う以外は、ラクダを見送り、缶詰を食べ、仲間と駄話をして宙づりの青春タイムをやり過ごすが、その指はマシンガンの引き金にある。
この、緊張感と退屈が混濁した時間の描き方が素晴らしい。
サミュエル・マオズ監督の才気に惚れ惚れしていると、惨事が起きる。
原題は『フォックストロット』、ダンスのステップの名称だ。
四角を描いて、元の位置に戻る。
民族の遺恨を背負い、戦争を続ける国に生きる、死の近くに生きるということ。
父親は、自分のそして家族の運命を書き換えようとしていたのだが。
偶然を神の仕業と読み変えることの、安らぎと痛み。
世界の裏で動く陰謀に思いめぐらせることで得る、期待と諦め。
どうあれ、生きることはすでにそれだけで困難なのだと、映画は教えてくれる。
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映画レビュー『オーシャンズ8』
http://machiyama.exblog.jp/27047840/
2018-08-11T12:07:00+09:00
2018-08-11T14:31:58+09:00
2018-08-11T12:07:20+09:00
hiromi_machiyama
未分類
峰不二子もいいけれど、そうじゃない女泥棒を待ってました。
「ルパ〜ン♡」なお色気ばかりが武器じゃなく、男の上前をはねるだけでもない。
男を泣かすのは痛快だけれど、いつも横入りでかっさらう、卑怯なやり方しかできないなんて。
もしかして、女をなめてるんじゃない?
『オーシャンズ8』は、男たちがイカす泥棒チームを組んできた「オーシャンズ」の全員レディ版。
そして、シリーズの最高のヒットになっています。興行成績でも、女が男を負かしちゃいました。
ジョージ・クルーニーとブラッド・ピットに代わってチームの中核になるのは、サンドラ・ブロックとケイト・ブランシェット。
ともに60年代生まれです。男性コンビから3歳ほどしか若返ってない、ほぼ50代!
このシリーズは、盗みの面白さと同じくらい、男たちのかっこよさと可愛らしさが魅力。
そのレディ版をつくるにあたって、女たちのかっこよさ可愛らしさを、男の目から見慣れた範囲にとどめてしまったら、ただの男女入れ替え版にとどまってしまう。
例えば、メンバーを若いモデル系美人だけにしてしまうとか。
でも、この映画の製作陣は、自分たちがやるべきことをよくわかっていました。
比べるのも残念ですが、戦艦まで女の子に擬人化して、若い可愛い女の子のイメージを消費する日本の例とはまるで違う。
いろんなタイプのかっこいい女が出てきて、女が見てかっこいいと思うポイントにしっかり目が配られています。
「男が憧れる」から「女が憧れる」へ、は設定についても同様。
用意された盗みの舞台は、ニューヨークのメトロポリンタン美術館で開催され、世界中のファッションセレブが集う、メットガラ。
毎年、ドレスのテーマが設定され、誰が何を着てあらわれたか、SNSでアカデミー賞よりも大騒ぎになる超豪華パーティーです。
このシリーズでは盗みを通して、大金が飛び交うカジノの裏側がわかるのもお楽しみでしたが、今回はメットガラの裏側が。
ドレスやアクセサリーの提供はそんな仕組みになってるのね、とゴシップ的興味をくすぐってきます。
人気デザイナーや有名編集長も、パーティ客としてご本人登場。盗みの行方にハラハラしつつチェックするので、見逃し要注意。
サンドラが演じるのは、クルーニーの妹。犯罪一家に育った盗みの天才のはずが、恋人に騙されて服役していたものの、出所して大勝負を仕掛けます。
パートナーのケイトと狙うのは、人気女優が身につける国宝級のカルティエのネックレス。
その、女優の地位にも男にも強欲な女優をいやーな感じ増量で演じてみせるのはアン・ハサウェイ。
あらためて、頭のいい人なんだと感服させられます。
そして、東海岸最高のハッカー役にはリアーナ。
世間の価値とか常識とか関係ないっす、な振る舞いがイカしてる。
韓国がルーツのラッパー、オークワフィナや、脚本を書きコメディアンでもあるインド系女優、ミンディ・カリング、そして濱田マリっぽいコテコテ演技で笑いをとってくヘレン・ボナム=カーターと、その他のメンバーも配置がうまくいっていて、シリーズで一番少ない「8」はちょうどいい塩梅。
ファッションが素晴らしく楽しいこの映画で、ぬきんでてかっこいいのは男装の麗人っぽいスタイルでキメまくる、ケイト・ブランシェット。
今年はカンヌ映画祭の審査委員長もつとめましたが、リーダーがこんなに似合う人は男優にもそうはいない。
その姿に惚れ惚れして、パンツスーツを買いに走りたくなります。
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『ヘリコプターとふんどし』
http://machiyama.exblog.jp/26992630/
2018-07-18T23:15:00+09:00
2018-07-18T23:15:03+09:00
2018-07-18T23:15:03+09:00
hiromi_machiyama
雑誌原稿アーカイヴ
「しかし、ヘリコプターは音こそすさまじいけれど、おずおずと、しかし興奮はして、何の現場でもない抽象的な上空を舞うだけだ。」
というのは、金井美恵子がテレビだけについて書いた数少ない文章の最後の2行である。
83年10月。
田中角栄に東京地方裁判所からロッキード事件において懲役4年追徴金5億円の実刑判決が下るその日の朝、田中邸の上空に集結した報道各社のヘリコプターが撒き散らす騒音は、ご近所に暮らす金井美恵子の眠りを破った。
豪邸の広さを強調することが「テレビ的金権政治の表徴」であるがゆえ、「そこで事件の全てが起きたわけでもないのに、あたかも現場のように上空から撮影され」生中継されたのである。
起こされたその人を、「今さらのように、テレビというものの〈映像〉の芸のなさに驚嘆」させて。
「鉄球とヘリコプター」と題されたこの文章は、同年がテレビ放送30周年にあたるため各所で発表されたアンケートで、最も印象深く記憶されているテレビ番組として浅間山荘事件が上位を占めていたことを参照する。
事件なのに、番組。
72年の浅間山荘事件は確かに、事件の経緯より鉄球が有名だ。
最長の中継時間と最高の視聴率(NHKと民放の合計)を記録したそれはテレビ史に残る現場中継だが、当然ながらカメラは建物の中に入れるはずがなく、たてこもりに至るまでの自撮り映像がネットに転がってるわけもなく、連合赤軍がたてこもる建物の壁に鉄球が打ちつけられそれが壊れていく様が放送時間の少なからずを占めた。
主演、鉄球。
その退屈な時間は「反復的な表徴を産出」し、鉄球と壁の生中継番組が浅間山荘事件と記憶された。
そのならいでテレビは、「大事件であることを強調するために、ヘリコプターを飛ばす」。
あの鉄球のような役は果たせずとも、自分たちのヘリコプターが出す騒音混じりの中継映像は、大事件の緊迫感を増幅させることはできる。
カラだが。
テレビには、実はカラの〈映像〉が多い。
ニュースで昨夜の事件が起きた現場から中継がなされるが、そこでその時間に行われているのは現場検証がせいぜいであって、当然ながら事件ではない。
バラエティは何かが起きるのを楽しみに見てもらうものだが、言いかえれば放送時間の大半は、何かが起きそう、であって、何かが起きてるわけではない。
カラの映像を意味ありげに見せるのは得意で、やり続けていると、カラがカラでなくなると信じられている。
信じればかなう。
そしてテレビは「映像ではなく反復的な表徴を産出」する。
金井美恵子は『反=イメージ論』と題された別の文章でも、職人や芸術家の今まさに作品を作り出している手先よりも眼の、作家については手の、クローズアップを多用することをうんざりと指摘している。
意味がべたべたと貼り付けられたカラの共有に慣れ親しむと、北朝鮮の脅威というカラの号令に、頭を抱えてしゃがみこむことがなんなくできるようにもなる。
それにしても、「何の現場でもない抽象的な上空を舞うだけだ」はいとも手短に、テレビを言い尽くしている。
読んだのは2013年発行のエッセイ選集に収められてからだが、書かれた当時の私はきっとこれを読んだところで、自分がこれから働く職場がこんな短い一文に収納できるとは考え至らなかっただろう。
しかもこの最後の2行でヘリコプターの振る舞いが、期待で顔を火照らせて女の寝室に足を踏み入れた男のごとく描写されているのが、撒き散らされる騒音を高笑いではね返すようで楽しい。
むなしく砕ける騒音の粒が白く濁って見える私は、調子に乗りすぎだ。
だがいつも、調子に乗ってしまう。
金井さん(ここまでもっともらしく金井美恵子と書いてきたが、トークショーにいそいそ出かけて編集者に紹介してもらい、姉の久美子さんもいらっしゃる席で食事をしながらお話できたことは今思い出してもただうれしいので、さんづけが落ち着く)が書いた小説や批評、詩、エッセイを読むと、その脳みそにライドする感覚があり、いや金井さんの脳みそにライドできるなんてそれは明らかに間違いなのだがそう思いこみたくもなる走行感を確かに感じて、それは私を調子に乗らせずにおかない。
ライドすると、スピードを得る。
痛快に進む。
景色はとび去り、後方に片付く。
うひょーと奇声をあげたくなる。
という説明はいかにもカラなので、つまりこういうことですと私は、表紙に猫がぬうと構える『ながい、ながい、ふんどしのはなし』を差し出し、その表題作を示す。
金井姉妹がそれぞれ殿山泰司に口説かれた事実も明かされる愉快で鋭利な人物スケッチやエッセイの前に立つ、およそ1300字。
83年の秋に書かれたそれは、引き写そうと刃をいれるのが憚られる美しさゆえ、読んでもらう以外の方法はないのだが、幼児の頃の金井姉妹が寝床で父親にねだると、空を見上げたら白い布がながながと落ちてきてそれはふんどしだったというおはなしが繰り返し披露された。
白い布がただ落ちてくるだけで、意味も物語もない。
そして、おねだりから語りを聞いて眠りに落ちるまでは毎回同じような段取りで、形式化されたそれをなぞること全体が楽しいお遊戯だったという。
そしてここでまた私は冒頭と同じく、最後の2行を引き写す無策をさらすが、それに勝る手がないから仕方がない。
「その後で父親はすぐ死んだので、無意味に白くきらめきながら際限もなく落ちて来る布は、その後、わたしが書くようになった「言葉」そのもののように見えるのだ。」
金井さんの文章を読む。
私はながい、ながい、ながあいふんどしにライドする。
うまく乗れなくて、ふんどしの端をつかんでびゅんびゅんと振り回されるばかりで、落ちているのかのぼっているのかも判然としないが、気分がいい。
奇声をあげる。
進め進め、ふんどし。
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『余談』から
http://machiyama.exblog.jp/26987239/
2018-07-16T08:57:00+09:00
2018-07-16T08:57:52+09:00
2018-07-16T08:57:52+09:00
hiromi_machiyama
未分類
実家がないならつくればいいじゃない
Let them make home
実家がない。
新宿区と千代区の賃貸を五軒移り住んで育ち、四軒めで別の自宅ができた父親がいなくなり、六軒めの江戸川区の公団住宅を出て働き結婚し、そこが実家になったはずだったが、母親が自己破産せざるを得なくなって居られなくなり、その母親も亡くなると、実家はなくなっていた。
めずらしくもないだろう。
独身に戻って三年程前からは、放送作家としての師匠が暮らした部屋を、ご遺族の方から借りませんかと提案され、ありがたくそうさせていただいている。
「ヴィンテージマンションをお探しのお客様がいらっしゃいます」というチラシがよく入っている昭和五十年代生まれの建物で、例のスクランブル交差点にほど近く、仕事にはとても便利な立地だ。
だけど「実家にでも帰って、ちょっとのんびりしてきなさいよ」と言われた時に、行く場所がない。
ブラウン管時代のドラマなら、行きつけの喫茶店のマスターかスナックのママにそう労られて、返事も返さずにタバコの煙を深く吐き出す場面だ。
たいへん困る。
ないと困る。
井上陽水には傘がないし西田敏行にはピアノがないし東京には空がないし、私には実家がない。
ないならつくればいいじゃない。
思いついてからは早かった。
一昨年の秋、那覇市内に四万八千円のアパートを借りた。
毎月は無理だが二ヶ月に一回くらいは帰り、用もなくあたりをうろうろする。
近所で映画を観て、本を読んで、お酒を呑む。少し長く眠る。
実家があればするようなことをして、東京に戻る。
沖縄を選んだのは、東京から遠く、しかし空港から那覇の街が近いとか、イオンに征服されていない地方都市だとか、冬の備えがいらないとか、そんな理由もあるが、以前にも自分のきっかけになった場所だからだ。
大学に入学してもまもなく、ゴールデンウィークに友達と沖縄へ旅行することになった。
旅費は彼女が付き合ってるおじさんが私の分まで出してくれて、ビーチでハッピーでアメリカンな沖縄に行ける。
やったじゃん。
バブル景気のさなか で、愛人契約が流行の遊びで、私と友達の眉は太かった。
おじさんは節約と下心の一石二鳥で、ダブルの部屋をひとつしかとっていなかった。
ダブルベットの端っこで、逆の端っこのおじさんの気配を頭の中で消し、隣りの友達のいつも と違う声に耳をくすぐられながら眠ろうとする。
笑い出す前に寝なくちゃ。
天気はとてもよく、沖縄のその時期の日差しの強さを知らない私は対策を怠り、目や肌をひどく腫らして無様な格好だったが、目新しいことばかりでとにかく楽しい。
おじさんを東京へ放り出してからはなお楽しい気持ちになり、友達と国際通りの店をあれこれのぞくうちに、宮古島出身の兄弟が古着のジーパンを売る店に落ち着いた。
なにを話したわけでもないが居心地がよく、他の店を回ってまたその店に戻ると、兄弟の仲間が溜まっていて、バイクで日本一周中だけど沖縄から出られなくなったとか言っている。
東京に帰らなくちゃいけない理由なんてあったっけ、と気づいてしまった。
自己啓発本には出てこない、ためにならないほうの「気づき」である。
友達は気づきもなく帰り、私には泊まるところもお金もない。
店に遊びに来ていた東北出身の琉球大の学生が、部屋に泊めてくれることになった。
タオルケットー枚借してもらえれば、十分。
昼は国際通りの店に遊びにいき、そのまま三、四日。
やっと母親に連絡したら、捜索願いを出そうか悩んでいたんだと泣きそうな声で言われ、あわてて東京に戻った。
もうそれから大学には行かず、仕事を探し、数ヶ月後には制作会社のADとして雇ってもらい、その後放送作家になった。
入学したら体育の授業があって並んで走らされ、「大学って学校なんだ」と驚いたし、サークルの新入生歓迎会に参加して同じ酒の席ならそれまでに経験した水商売のバイトのほうが自分には快適だとも感じていたから、大学をやめるのは時間の問題だったが、履修登録もせずに行かなくなるとは。
沖縄は、軌道を外れた、きっかけの場だった。
保証人になってくれる県民がいないと部屋を借りることは難しいのだが、かつての同僚がUターンしていて、即決で請け負ってくれた。
二十年近く会っていなかったのに、今とは比べようもない程ひどい労働条件のもと、テレビの制作現場で一緒に働いた時間の濃さがありがたい。
実家をつくった効果は、小さくなかった。実家もグラビア写真に映った乳首も政権の関与も、あるとないとじゃ全然違う。
つくってみてわかったことだが、自分から仕事を省いた、残りの自分がわからなくて不安だったのだ。
例えば、スピードがわからない。
テレビ業界のそれに馴れ過ぎた。
でも、実家をつくったら、自分の中に沖縄の実家のスピードができた。
安心した。
初めての沖縄でも、私は安心したのだろう。
大学はやめたいが、不安だった。
でも、知らない場所でも楽しくやれる、自分は大丈夫かもしれない、どうにでもなれと思えた。
おじさんを使って私を連れて行ってくれた大事な友達は、その二年後に結婚し、その三年後に酔って階段から落ちて亡くなってしまった。
中島らもじゃあるまいし、まだ二十四歳だった。死んだということがよくわからなくて通夜でもやたらと腹がたつだけで、数日後に『スイート・スイート・ビレッジ』というチェコ映画でおっさんがタ食用のウサギを吊るして腹を割くのを観ていたらやっと、友達が死んだんだとわかって、ぼうぼう泣いた。
実家をつくって一年になるすこし前、去年の夏の終わりのこと。
なにしろ実家だからご近所をまわるばかりで過ごしてきたし、土地勘がつき自分にとって街が近くなってくるのが楽しかったが、そろそろすこし遠出もしてみようという気になった。
免許を持ってないから、移動するなら車より船がいい。
作家とナレーターを兼任している『幸せ!ボンビーガール』という番組で知って、気になっていた島がある。
ネットであれこれ調べたりせず、地元っぽくふらっと行ってみよう。
那覇市の泊港から、フェリーで九〇分。
慶良間諸島の阿嘉島に着くと、港の青さに驚く。
ケラマブルーとは聞いていたけれど、ビーチだけじゃなくて、島をかこんでまるっと、海が青や緑に透けている。
「自転車で15分で一周できちゃう」という自分が読んだナレーションを確認しようと、宿で自転車を借りた。
本当だった。
宿は数件しかなく、ひとり客は相部屋が当たり前らしい。
飲食店も当然少なくて、昼食は漁協の売店で食べた。
ケラマジカにしっとり見られた。
シカに見られると、どうして質問されている気持ちになるんだろう。
自転車で隅々まで走りまわるのが、楽しい楽しい。
でも早々に、走り終えてしまった。
宿にもらった地図を見ると、阿嘉島から隣りの慶留間島まで、橋を渡って行けるようだ。遮るものがなく地面の照り返しも含めまさに全方向から強烈な日差しをくらい、大汗をかきながら、百メートルちょっとの阿嘉大橋を渡った。
阿嘉島は一九四五年三月、沖縄戦で米軍が最初に上陸した島だ。
そしてこの島の集落では、集団自決は行われなかった。
慶留間島は、そうではなかった。
橋のたもと近くには陸軍の特攻艇が隠されていた壕の跡が、集落の手前には「伊江島村民収容地跡記念碑」がある。
翌四月に米軍が伊江島を占領、伊江村民が捕虜としてこの島に収容されていたことを知った。
収容はそれから1年。
東京ではもう、戦後が始まっていただろうに。
集落の奥、海岸へ降りる前に自転車を置く場所を探していたら、左手に建物があり、門の奥に海が見える。
「慶良間小学校」の看板。
校庭が砂浜に続いている。
なんて素晴らしいとのぞいていたら、「入っちゃダメなんだよ」。
男の子がこちらを見ていた。
二年生ぐらいだろうか。
「大丈夫、入らないけど、自転車止めたいだけ」「名前なんていうの」。
意表を突かれて姓だけ答えると、姓&名をはっきり名乗られた。
とうま君は真っ黒に日焼けして、白いTシャツの胸にはモノクロ写真のプリント。
そして指示に従い、海に面して立つ集会場の横に自転車を止めて、海のほうに行こうとするとついてきた。
建物の周囲をかこむ側溝を指し、「ねえ、ここの水、どこからつながってると思う?」
一緒にのぞきこんで「わかんないねえ」と応じると、「捜査しよう!」
巻き込まれた。
「わかんない」を「教えて」に聞くなんて。
返事も聞かずに勝手に巻き込むなんて。
漫画や映画でしか見たことがない展開。
ついていくしかないじゃない。
とうま捜査官が水の流れをたどるのに、私は同行する。
「水が増えたり減ったりするね、不思議だね」と捜査に協力する。
捜査結果は察しているが、言わない。
とうま捜査官も 実は知っているのかもしれないが、大事なのは協カすること。
そして、結論にたどりつく瞬間を共有すること。
とはいえ、強い日差しのもとで下を向いて捜査を続けていたため、後頭部の熱さがいよいよ堪え難くなり、私はスイッチを押す。
「海のほうとかかなあ」、とうま捜査官がさっそく発見する。
「ここの水は海とつながってるんだ!」
捜査は無事終了。
捜査官も解雇。
すると、すこしの空白も許さず「公園行くよ!」
答えを聞かずにいきなり宣言するのは、私がついてくるって信じてるから。
信じてくれるなら、ついていくしかないじゃない。
こんなデートを夢見てた。
走り出したとうま君を追う。
映画『フォロー・ミー』でトポル探偵がミア・ファローを尾行してたどりつくロンドンのケンジントン公園は広いが、この公園は小さく、芝生の緑が濃い。
駆け込んだのは公園の外れで、椅子と机、机の上にはガラス瓶がある。
「研究所かな」「うん、研究所だよ」、その瞬間からそこは謎の研究所だ。
ガラス瓶の中には、砂や小さな貝が入っている。
ふたを開けて匂いを嗅いだとうま君が「くさっ!」、私も嗅がされる。
臭い。
ひどく臭がる私が、とうま君を喜ばせる。
「こっちきて!」
公園に隣接する建物の階段下のへこみに入るように指示され、そこに収容されると、壊れた柵を足もとに立てられた。
「出られないよ」。
それは呪文で、謎の研究所の隣は牢獄になり、脱出不可能だ。
実験されてしまう、おそろしい。
助けを呼ぶ。
それなのに、「ちょっと待って」といなくなり、建物を一周して戻ってきた。
なにも変わってないが、実は建物の裏にはワカンダから瞬問移動してきたフォレスト・ウィテカーが居てヒーローになれるハーブを飲まされてきたのかもしれない。
もう一度助けを呼ぶ。
「助けるよ、男の子だから」。
柵は破壊され、私は救出された。
男の子が男の子だから助けてくれるなんて、ずっと前に思ったことがあるような気もするが、思い出せない。
でも、ヒーローが言うなら本当だ。
と思ったら、悪魔の研究所も牢獄も消えていて、このフェードアウトがなくすべてが食い気味のカットアウトという演出が心をかき乱してくるわけですが、公園の真ん中の丸いジャングルジムの真ん中にとうま君はいた。
「まわして!」
ところがだ。
どこからともなく、同級生くらいの女の子が走ってきて、とても勢いよくジャングルジムを回してしまった。
「上手だね」と声をかけたが、彼女は走り去った。とうま君を回していいのは私だけ、というメッセージをしかと受け取る。
それにもう、宿に戻る時間だ。
思いきって帰ると言うと、とうま君は足もとの貝殻を拾って、「あげる」。
きれい、ありがとう、でも帰ると言うと、今度は木片を拾って「これチーズだよ。あげる」。
たしかにそれは6Pチーズのかたちだけど、炎天下で遊んで頭がくらくらだ。
もう一度帰ると言うと、「なんか持ってるもの、ある?」
おみやげ欲しいのかなとバッグの中をさぐり、水中メガネをあげることにした。
渡すと、とうま君はそれを左手で掲げて、その周りに右手で大きく円を描いた。ここは空港検査場だ。
そして私はとうま君から、言葉をもらうことになる。
言われたその時は、おみやげ欲しいのかなと下世話な想像をした自分が恥ずかしくなっただけだった。
でも、阿嘉大橋を渡る 頃にはうれしくてにやにや笑ってしまい、夜に相部屋の女性と一緒に海へ出かけて阿嘉島の空からこぼれる星を見る頃には思い出して泣きそうになり、その後は女友達にこの話をしては「それ、天使でしょ」「理想の男じゃん」「ついに別世界に逃避か」と言われておっしゃる通りと自慢に鼻を膨らませ、もらった言葉を胸で温めている。
それは、実家をつくった気持ちのその奥を言い当てていた。
欲しいのは、必要なのは、それだったよ。
ありがとう。
水中メガネを返し、とうま君はこう言って私を見送った。
いじょうなしっ
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映画レヴュー『バトル・オブ・ザ・セクシーズ』 『母という名の女』
http://machiyama.exblog.jp/26986413/
2018-07-15T19:54:00+09:00
2018-07-15T19:54:44+09:00
2018-07-15T19:54:44+09:00
hiromi_machiyama
雑誌原稿アーカイヴ
男女を超えてみせた女 女に囚われつづける女
女は。
男は。
日本人は。
関西人は。
港区民は。
射手座は。
B型は。
決めつける面白さというのはあるし、失望を慰撫してくれるし、根拠のない希望も時にはほしいし。
でも他人に向けるとなれば、話は別だ。
本人が変えられない属性にはめて決めつければ、容易にそれは差別に堕ちる。
そして、自分自身を枠にはめ歪めてしまうこともある。
『バトル・オブ・ザ・セクシーズ』は45年前の史実の映画化。
女子と男子のチャンピオンが戦った。
プロレスじゃなくて、テニスでだ。
きっかけは女子と男子の優勝賞金の格差。
キャリアも人気も十分な29歳のビリー・ジーン・キングは格差に怒り、既存の協会を脱会、仲問と女子テニス協会を発足させる。
男女平等を訴える運動の高まりという時代の追い風を受けつつ、注目と非難を受けて奮闘する彼女に、挑戦状を叩きつけたのは55歳の元チャンピオン、ボビー・リッグス。
男性優位で当たり前でしょ、こっちが強いんだから、とビリー・ジーンを女性たちを挑発。
男女の戦いはどうなるのか。
それぞれが抱える家庭の事情、愛の困難とともに描いていく。
監督は青春映画『ルビー・スパークス』で、男子と女子の願望のすれ違いを描いた、夫婦コンビ。
現在も変革を求め活動を続けるビリー・ジーン・キングの英雄譚におさまりかねない題材を、女性蔑視に囚われた社会は男性にとっても苦しいよねと、笑わせながら浮き掘りにする。
ビリー・ジーンを演じるエマ・ストーンがいい。
強さと迷い。
恋の場面は、ロマンティックで痛みがあって、彼女のこれまでのどの映画のラブシーンより記憶に残る。
メタルフレームのメガネを真似したくなる。
ボビー役はスティーブ・カレル以外に考えられない。
悪態と狂騒の下の、歪みと痛みが愛おしい。
そして、アラン・カミングがこれまたハマり役の、女子テニス協会を盛り上げた実在のデザイナー。
その仕事ぶり、当時のファッションもわくわくする見どころだ。
「強い男、守られる女」という、今も社会を固めている思い込みを、非難するんじゃなく、実態に即してませんよね、幻想に縛られてるとみんながしんどいでしょ、と軽やかに否定する。
フェアで痛快な映画だ。
逆に『母という名の女』は「女」 が暴走するホラーである。
女は、「守られるべき」存在として押さえ込まれなから、母性本能という「守る」能力も同時に期待されている。
この矛盾も厄介だが、そもそも各自が本能を制御することで秩序が保たれているはずの社会で、「本能」を期待されるのも、また矛盾。
そして、最近の社会は女に「ずっと若く美しく」も要請する。
恋愛市場で現役としての価値を持つことも、奨励する。
すべては、消費を促すため。
この映画の母、アブリルはそんな社会の期待を全部満たしている。
娘二人を育て、早くも孫を持つことになり、美しく色っぽいヨガのインストラクター。
その彼女が欲望を、さらに追い求めたらどうなるか。
幼子を抱く母。
それが最高に美しい姿だと社会が讃えるなら、それを目指すのが、欲望の果てとなる。
前作『或る終焉』で、「高齢化社会で人間がよく生きる」難しさを物語にして強烈なラストをかましてみせたメキシコ出身のミシェル・フランコ監督。
今回も「女と本能と社会」という厄介な問題を、理屈からスリリングな物語に昇華。不穏がじわじわと侵食、ぞっとする結末が。
男、女、母。
なにかの枠の中におさまるのは、安心。
自分という点に立つとぐらぐらしてこわいけれども、点に立てる人はかっこいい。
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