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映画レヴュー 『ドント・ウォーリー』
『and GIRL』2019年5月号



タイトルの『ドント・ウォーリー』に、
英語の原題では続きがあります。
訳すなら「大丈夫、遠くまで歩いてけやしない」。

これは、事故に遭って車椅子生活になった漫画家ジョン・キャラハンご本人が、そうタイトルをつけた回想録の映画化です。

映画の中で使われている彼の漫画でも、このセリフを、追っ手のカウボーイたちが置き去りになった車椅子を見て言います。


なんて苦い。


でも自虐におさまらない、痛快さも感じとりたくなりませんか。
「脚で」は行けないとしても、「頭で」ならば、どこへでも。

そういう意味もあるかもねという思いは、映画を観終わると、確信に変わります。
実際、キャラハンは車椅子生活になってから、新聞のひとコマ風刺漫画家としてデビューしたのですし。


演じるのは、ホアキン・フェニックス。
その暗く悲しい瞳で、キャラハンが自分を持て余している人物だと感知させます。


胸から下が麻痺の重傷を負ったのは、バカげた事故のせいでした。
ひどいアル中で、友人と泥酔して遊びまわった、その結果。


歩けないし、アル中だし。


そこから、彼は自分をどう立て直すのか。そもそも彼はどうして、酒に溺れてしまったのか。


自己否定におびえ、怒りで何重にもガードを固め、こんがらがっていたキャラハンが、すこしずつほぐれ、肩におかれた誰かの手の温かさを感じられるようになるまでを、映画は丁寧に描いていきます。


この回想録の映画化はもともと、コメディアンからスタートして人気俳優になったロビン・ウィリアムズが熱望。
キャラハンと同じ街で暮らす、友人のガス・ヴァン・サント監督に相談していました。
猛スピードで車椅子を走らせる姿を、監督が実際に近所で見かけてもいたから。


しかし、ロビンは自らこの世を去ってしまいました。


あらためてこの企画に向き合った監督は、ホアキンを主役に。
ドラッグの過剰摂取で23歳で逝去した、ホアキンの兄のリヴァーも、監督の作品に主演、友人でした。


もう会えない人たちへの思いが、かけられなかった言葉が、この映画には織り込まれているのです。


ジョナ・ヒルとジャック・ブラック、コメディアン出身の2人のキャスティングにも、ロビンの影が見えます。
ヒルが演じるのは、断酒会を主催する富豪。
世を俯瞰する不思議な佇まいに、すっかり痩せてちょっと美形になった容姿が相まって、なんとも色っぽい導師に。


彼は、12のステップを提示して、キャラハンを導きます。

例えば、何を神様だと思ったっていい、ホラー映画のキャラクターだっていい。
そう言って、神の前の自分の無力を心得ることに意味があると教えます。


すべての人に、助けが必要。
弱さを自覚して助けを求められれば、助けを得て、強くなれる。


キャラハンが、困らせ悲しませた人々に次々会いに行くステップは、どこか現実味が薄く撮られていますが、わかってくるのは、彼の悲しみの根っこは、生まれたそのことにある。

でもそれは、幼少期母親に捨てられた怒りよりも、生まれてしまった自分の存在が母を苦しめたのではないかという思い。
だから彼には、誰かに許されることが必要でした。


「許せない」は「許されたい」の後ろ姿なのかもしれません。


「ドント・ウォーリー=大丈夫」は、許しと受け入れを軽やかに表明する言葉でもあり、抱き寄せて背中をぽんぽんするときに思わず出る声でもあり。
大事な人に示したい、示されたいのは、そういう気持ちだよね、とこの映画は観客と、もう会えない人たちに伝えてきます。



追記/

キャラハンの風刺漫画家としての活躍は80年代に始まり、読者のモラルを揺さぶる狙いとはいえ、性差別的な展開をするネタも少なくなかった。この映画はその点をスルーせず、ぴしゃりと言及するシーンをつくっている。「当時のことだから」では、済まさない。

実話という過去を映画に仕立てる際に、そうした目線はとても重要だと思う。

クリント・イーストウッド監督の最近の作品をきっかけに、「実話の再現」の身勝手について考えていることもあり、この映画がそこで逃げをうたないことに感銘を受けました。


# by hiromi_machiyama | 2019-05-11 17:16 | Trackback
映画レヴュー  『ビリーブ 未来への大逆転』

                                            『and GIRL』2019年4月号




Tシャツにもマグカップにもワークアウト本にも物真似ネタにもなっている、現代アメリカのアイコン。

それはコミックのスーパーヒーローではなく、もうすぐ86歳になる女性。


『ピリーブ 未来への大逆転』は、そんな人物の伝記映画です。


RBGとイニシャルで呼ばれることも多いその人を描いた絵本の日本版タイトルは、『大統領を動かした女性ルース・ギンズバーグ 男女差別とたたかう最高裁判事』。


女性として史上2人目の最高裁判事で、在職25年以上。

お堅い法衣に、白いレースの襟飾りをあしらうのがお決まりの、おしゃれなマダムです。


アメリカの最高裁判事は9人ですが、ルースに集まる人気と信頼は圧倒的。

昨年体調を崩した際は、その無事を祈ってクリスマスツリーにルース人形を飾るブームが起きたほどでした。


最高裁判事の任期は終身で、任命するのは大統領。

トランプ大統領のもとで3人が交代、もしルースが去ると、判事9 人の構成に思想的な偏りが強まる懸念からも、彼女の存在は「トランプ的なアメリカを望まない」「公正で平等な社会を希求する」人たちにとって、頼みの綱であり希望であり。



そんなヒーローの2030代はどんなだったのか。

ご本人の甥が脚本を書いたこの映画は、ハーバード大学法科大学院の入学式から始まります。



時は1956年。

超名門校の500人の学生のうち、女性はたったの9人。


男性エリートの育成を目指して運営され、女性は想定されていない状況。

しかもルースは、子育ての真っ最中にあって。


貧しい家庭に育ち、母親を早くに失い、必死に勉強してきた彼女は、大学で出会い、結婚。

この夫が、料理の苦手なルースをキッチンから遠ざけて得意の腕を振るい、子育てに当たり前に参加、妻の才能や活躍を素直に喜べるという、なんとも理想的なお方。


しかも演じるのは、育ちも顔立ちも整いすぎるほど整っているアーミー・ハマーゆえ出来過ぎとひがみを言いたくなりますが、こういうお相手を見つけられるのもまた、ルースの才能であり賢さなのかも。



でもどんなに優秀でも、自分のいる社会や時代を選ぶことはできません。


ルースは学内では女だからと教官たちに軽んじられ、それでも猛勉強してトップの成績で卒業したのに、就職できない。

次々に断られてしまって、目指していた弁護士になることができない。


その理由の一例が、もし女性を会社に入れて一緒にがんばると「奥さんたちが嫉妬するから」。


これ、男性の多い職場に女性が加わるときの、意外なあるあるです。

「あなたや奥さんが思うほど、あなたは男性として魅力的じゃないですけど」と言ってやりたくなる、腹の立つ言いがかり案件。


ルースはそうした自身の体験からやがて、女性そして立場や力の弱いあらゆる人が不当に扱われている現状を変えようと活動を始めていきます。



けれども、70年代の社会 はまだ、女性を差別していることにさえ気づけていません。

先の見えない闘いを、彼女はどうして続けることができたのでしょうか。



監督のミミ・レダーも女性です。

今でも女性が少ない撮影技師を志し、職人的な監督としてキャリアを積んできた60代。

ルースの苦闘に、自身の経験を重ねたに違いなく。



ルースが大切にしているのは、「疑問を持ち続ける」こと。

疑問を持てば、学びたくなる。夫からも娘からも学べる。

この映画はヒー口ーを、学び続ける人として描きます。



疑問を手放さない、そこからなら偉大な先輩を真似できるかもしれないと勇気が湧いてくるはずです。


# by hiromi_machiyama | 2019-05-11 16:57 | Trackback
アニエス・ヴァルダ監督『顔たち、ところどころ』パンフ

『ふつうの人々のあたりまえの誇り』


ツートーン・マッシュルームカットの可愛らしいおばあちゃん、な見た目に安心してはいけない。
これは切れ味の超鋭い、天才 の仕事。
まぎれもない傑作だ。

共作クレジットになっているが、『顔たち、ところどころ』は今年90歳になるアニエス・ヴァルダの、幾多の輝かしい仕事の新たな頂点と言える。
映画を仕掛ける、現場で起きたことを余さず的確に撮る、自在に編集する。
各段階での発想の豊かさ自由さ巧みさが凝縮された、映画エッセイにして、アート製作ドキュ メンタリー。

「ヌーベル・ヴァーグの祖母」という形容詞が後付け、追っかけにすぎないことが、よくわかる。
そもそものちに整理される「新しい」は、アニエスの身の内にあったのだ。

54歳年下の男子アーティストJR との出会いから映画は始まる。
はずが、まずひとひねり。
その遊びで提示された、出会いの得難さ、奇跡の一回性が、この映画を柔らかく貫き、やがて帰着する見事な構成なのだが、まずはひとつひとつのエピソードを楽しみたい。

JR は、社会的な問題を擁する場所でそこに暮らす人のポートレートを大きく貼り出す、という作品を発表してきた。
そんな彼を、アニエスはふつうの田舎町、フランス各地へと連れ出す。

農家、港湾労働者、工員。ふつうの人の、人生の凄み。
思わぬ金言。
初対面の会話からそれを引き出してしまうアニエスは、さらには少々の演出を仕掛けて、演劇的で象徴的な場面もつくりだす。

JR の写真が加わると、さらに事態は変化する。
アートが、心動かす瞬間がつくりだされる現場を続々と目撃させられて、クラクラしてくる。

田舎町のふつうの人たちからひきだされる、「ストをする自由」「あなたも主張し続けて戦って!」の言葉。
フランスらしい、と言えばそうだが、それをひきだし編集で選択するのは、アニエスだ。

軽やかに始まった、アニエスとJR の田舎さんぽが、自由や人権、大きなテーマに手を広げていく。
いや、手を広げるのではなく、それらが生活のうちに含まれているのが当たり前、というのがアニエスの考えなのだと思う。

ふつうの人が自分の仕事や生活に持っている誇り。敬意をもってそれを撮る、聞く。
その誇りを顔として、大きな写真に掲げる。
二人はそんな仕事を重ねて、旅をしていく。

アニエスは老いの実感を隠さず、その素顔をあらわにしていき、思い出に繰り返し立ち止まる。
そして、JR と同じ黒眼鏡の男にして若き日の友人、映画の革命児ことジャン・リュック・ゴダールを訪ねるのだが。

その結末にあっけにとられ、たちあがってくるのは、人生の一回性、すべての時間への愛おしさだ。

戻らない、失われる。
だからこそ、各々の瞬間を、人との出会いを、自分自身を大切にし、誇り、他人のそれにもまた敬意をもたなくては。

甘哀しいギターが響くエンディング、胸がいっぱいになる。

(『I n Red』2018 年 9月号からパンフレットに転載)



アニエス・ヴァルダ監督、ありがとうございました。



# by hiromi_machiyama | 2019-03-29 21:42 | 雑誌原稿アーカイヴ | Trackback
映画レヴュー『ヴィヴィアン・ウエストウッド 最強のエレガンス』 『ザ・スリッツ:ヒア・トゥ・ビー・ハード』
                 『In Red』2019年1月号掲載



好きな服を着よう
自分が好きな服を


ココ・シャネルがジャージ素材を採用した時。
マリー・クワントが、ミニスカートを提案した時。

女の服装が「あるべき姿」からはみだすと、社会は嫌悪で迎えた。
見える景色が変わることに、社会の変化を察知するからだろう。
女は景色じゃないのにね。


だからこそ、ファッションは面白い。
自分が着たい服を着るのは、けっこう大事なことだ。



70年代のはじめにロンドンで音楽と同時発生で生まれ、今はファッション においてジャンルやテイストのひとつに落ち着いているパンクは、登場した時、 社会からとりわけ嫌悪された。
そのファッションの生みの親で、以降40年、最前線に居続けるその人に3年間密着したドキュメントが、『ヴィヴィアン・ウエストウッド 最強のエレガンス』だ。


全部見せてくれる。
なにしろ、ブランドのコレクションは現在、ヴィヴィア ン自身は指揮にまわり、25歳年下の夫アンドレアスがつくってること、元は彼女の教え子だった夫が現場を率いるのにスタッフが不満を持っていることなんかが、明かされてしまうのだ。

そしてこの映画は、ヴィヴィアンが拘束衣をヒントに発明し、セックス・ピストルズのメンバーが着て社会に衝撃を与えたはずのその服が、今や博物館に保存され、学芸員がうやうやしく開陳するその様子に荘厳なクラシックを流して、なにやら茶化してみせもする。
偉業だけれど、これって死体だよね、とでも言いたげに。


ヴィヴィアン自身も、パンクは、唾する者も受け入れる英国社会の懐の深さを喧伝しただけ、社会を変えられなかったと振り返る。


では諦めたのかといえば、全然違う。
最近もデモの先頭に立ち、熱心な活動 でスタッフを困らせたりしている。


周りにモデルがいようと、その場で一番、自分の服をかっこよく着こなしているヴィヴィアン77歳。
ビジネスの巨大化グループ化が進むファッション界で、DIY=自分で作るというパンクの精神を譲らず、独立して事業を続けられているのは、過去の二人の夫との間の息子たちも、52歳の時に結婚した年下夫も彼女への敬愛を深めるばかりなのは、なぜか。


だんだん見えてくる。
今も店に自転車で通うように、自分の頭で考え続けて、安住しない。

ヴィヴィアンの信条は、疑問を持ち続けて、かかわり続けること。
それは、自分自身を手放さないための確かな方法だ。




二人目の夫マルコム・マクラーレンが、 夫婦で経営する店「SEX」の店員と常連を束ねてピストルズをつくった頃。同じくロンドンで、「バンドをやりたい」と動き出してる女の子たちがいた。

76年に結成された、世界初の、女の子だけのパンクバンドをそのはじまりからたどるドキュメンタリーが『ザ・スリッツ:ヒア・トウ・ビー・ハード』。
スリッツが意味するのは、女性の身体の真ん中に開いてるあの部分でもあり。


バンドの支柱、ボーカルのアリ・アップは、結成当時14歳だった。
残っている映像はあまり多くない。
「歴史から消された」と研究者の女性は憤る。



あらゆる権威に歯向かうはずのパンクは、暴力性を高めるうちに男性優位主義を強め、ナショナリズムにさえ接近していった。
スリッツは短い活動期間ながら、自分たちの音楽を探し、ステージで踊りまくり、レゲエやエスニックなサウンドにも自由に触手を伸ばしていく。
闘いながら。



ベースのテッサが部屋でスクラップブックを読み返す様子を親密な縦糸に、みんなに「できる」と思わせてくれた、亡きアリ・アップという中心の空白に収斂していく構成に愛がある。


女の子が好きな服を着てるだけで殴られた時代に、好きな服を着て言いたいことを言うんだ!と闘って、自分たちだけの表現を探し続けた。
勇敢な、世界初の行動は、現状に疑間を持つ後輩たちを鼓舞し続ける。


# by hiromi_machiyama | 2019-01-01 21:03 | 雑誌原稿アーカイヴ | Trackback
映画レヴュー  『アリー/スター誕生』   
                 『and GIRL』2019年1月号





『スター誕生』は、歴史の浅い国そして映画の国、アメリカにおける神話です。

1937年に映画『スタア誕生』が作られ、リメイクは54年、76年、そして『アリー/スター誕生』が3回目。
そのストーリーをヒントとする映画も、近年の『ラ・ラ・ランド』など多数。
アカデミー賞受賞作にもたくさんあります。


そんな神話の再生ゆえ、主演ビヨンセ&監督クリント・イーストウッドという企画がながれた後、大いに注目を浴びて制作に。
もともと女優志望でもあったレディー・ガガがついに初の主演に挑み、監督は俳優としての成功は申し分ないものの、演出の力量は未知数のブラッドリー・クーパー。

その結果は、興行成績も評価も上々。
アカデミー賞ノミネートも確実視されています。



そしてこの映画、ちょっと意外な仕上がりです。



まず、神話のあらすじをあらためて。
手の届かない夢を諦めかけていた女性が、スターである男性に見出され、ステージへ。
彼女の才能は開花、大きく実っていきます。
互いの素晴らしさを他の誰よりもよく知るふたりは愛し合いますが、やがて人気が逆転。
男性はそれまでの活動で頼ってきたアルコールやドラッグに心身を蝕まれていて、その苦境はさらに深まり、やがて別れが。


オリジナル版では映画スター、76年版からミュージシャンの物語になり、今回も音楽業界が舞台です。


この物語は、主役の女優を輝かせる役どころとしても周知されています。

冴えないその他大勢だった女性が、どんどん輝いていくその変貌ぶり。
愛情にも恵まれる夢の日々で満たされたはずが、次第に傷ついていくその痛み。
さらには愛する人への献身、絶望、そして最後にどんな表情を見せるか。
見せ場がぎっしりの作品だからです。



しかも、54年版のジュディ・ガーランド、76年版のバーブラ・ストライサンドがそうだったように、すでにスターである女性が業界内恋愛を演じることの面白さ。
ご本人と役柄が重なる、きっとこんな恋愛も体験したに違いない、と少々下世話な興味を誘うのもこの映画のお楽しみ。

実に要求される要素の多い役柄なわけですが、ガガは満額回答。
歌唱はもちろん、演技も「ガガ様が演技してる」という雑音を感じさせません。
特に、怒りを表現すると輝いて、その熱には圧倒されます。
自身で作った楽曲も、器用にジャンルを横断しつつ心に刺さるもので、あらためてアーティストとしての懐の深さにうならされます。



そうなんですがこの映画、今までの3作と一番違うのは男性側の比重が大きく、終わってみれば、脚本作りにも参加したブラッドリー・クーパーが主役にさえ思えてくること。



冒頭は76年版のクリス・クリストファーソンへの憧れを隠さない、低い声を作ってのなりきりぶりにとまどいましたが、それをちゃんと自分のものにして。
さらにはその、もがき堕ちていくスターの背景を今までになくていねいに描いて、有名すぎる物語に新味を加えています。

ガガ率いる楽曲制作にも参加し、天下のガガ様と同様に、口パクなしの撮影現場でのナマ歌唱に挑み、なんと有名フェスのステージに上がってのなかばゲリラ的な撮影さえも。
完全に出演者目線で撮られたライブシーンは、とても新鮮かつ濃厚な臨場感。



女優を輝かせる神話で自分をかっこよく見せちゃうクーパーに、感服しました。
そしてガガ、演技も歌も素晴らしいだけに、この役そしてこの役を演じた先輩みたいに、私生活で苦悩を重ねずにすむよう、ついお節介な願いをかけてしまいました。


# by hiromi_machiyama | 2018-12-30 22:17 | 雑誌原稿アーカイヴ | Trackback
映画レヴュー       『メアリーの総て』  
                『and GIRL』2018年12月号


「若い女に絶望や苦悩は表現できないと思っているのですかっ!」
その咆哮に、心臓が凍りつく痛みと、血が湧き立つ情熱を感じるために、映画館へ走ってください。

これだけで伝わる人には十分伝わるはずですから、もう原稿を終わらせてもいいくらいですが、蛇足を書けば、これは200年前に、19歳の女性があげた怒りの声。

声の主は、メアリー・シェリー。
『フランケンシュタイン』の著者です。

その登場人物は世界に知られ、長く読み継がれ、書き込まれた思いが多くの人を刺激し続ける小説。
メアリーはわずか18歳のときに書き始めました。

何が彼女をそうさせたのか。
女性に投票する権利さえなかった19 世紀のイギリスで、この傑作の着想を得て、ついに書き上げるまでの苦悩と絶望と復活を描くのが、『メアリーの総て』。
史実に基づいています。



エル・ファニングが、メアリーに。
この映画が作られるときに彼女がまだ10代だったことを喜びたい、申し分のないキャスティング。

さらに監督は、映画館の設置が法で禁じられているサウジアラビアで「初の女性監督」になったハイファ・アル=マンスール。
彼女にとって、女性の権利や選択が大幅に制限されている社会は身近なものです。



映画は16歳のメアリーの、詩人パーシー・シェリーとの出会いから。
一目で心惹かれた彼は、父親に弟子入りしてくることに。

父親は書店を営みつつ、無政府主義をとなえる学者。
メアリーはそんな父親を慕いつつ、自分を産んで亡くなった母親に少しの罪悪感と多大な敬愛を抱いている。
女性の権利拡大を訴えたくさんの著書を残した急進的な思想家で、結婚についても独自の考えを持ち、両親は3人婚を。
今は、そのもう1人の妻や彼女の子どもたちと暮らしていて、居心地はよくないけれど、年齢が近い義理の妹は親 友のような存在でもあり。

メアリーはパーシーとの結婚を願うものの、彼には妻子が。
しかし身ごもり、妹もまた、現在の日本にも信奉者の多い大詩人に惹かれ、乱れた交遊で有名な彼と深い関係に。



メアリーは・パーシーとの間に、愛と信頼を実らせることができるのでしょうか。
愛も裏切りも次々と荒波のようにメアリーをのみこもうとしてくるなかで、世界を変える傑作はどのように書かれるのでしょうか。



メアリーはたくさんの死に立ち会います。
運命の過酷さには抗えないと、身をもって知ることに。

そして、強烈な喜びと苦しみをもたらして彼女を変えてしまうパーシーを、この映画はフランケンシュタイン博士と重ね合わせてみせます。
そう、フランケンシュタインとは死体をツギハギして作られた醜い怪物ではなく、怪物を作った博士のこと。
メアリーは自分のうちに身もだえる醜く破壊的な感情を怪物に託してもいたのでしょう。

小説『フランケンシュタイン』のタイトルは実は、『あるいは現代のプロメテウス』と続きます。
ギリシア神話で神の世界から火を盗んで人類にもたらす人類創造の神を、博士に重ねたのですが、メアリーもまたプロメテウス的な存在となりました。

この小説はSFの開祖と言われ、手紙で構成された形式もひとつの発明でしたし、悪が確定せず存在の不安を問う物語も新しく、後の小説や映画に絶大な影響を与えました。

この映画で語られない部分はありますが、恋愛のすったもんだを見届けつつ、冒頭の言葉に立ち合い、
さらに「●●が、私を創った」という至言にどうぞ圧倒されてください。
苦しみ憎しみに溺れたとき、浮き輪になってくれるはずです。


# by hiromi_machiyama | 2018-12-29 23:59 | 雑誌原稿アーカイヴ | Trackback
映画レヴュー       『あまねき旋律』                                        『ニューヨーク、ジャクソンハイツへようこそ』    
                                  
                『In Red』2018年11月号掲載



ともに生活すること
働くこと歌うこと


例えば、都心で生まれ育った私は1、 2カ月おきに数日間を那覇で暮らすことにして2年になるが、場所で人は変わると思う。

那覇の街猫は落ち着いていて、人が近づいても首をあげチラ見したらまた寝てしまうし、なんなくお腹を見せてくる。私もそんな感じになる。

でも、羽田を出たらもう、行列がもたつけば原因を探ろうとしてしまう。
よけいな恐怖心のせいだ。




『あまねき旋律』はインド東北部、ミャンマーとの国境近くにあるナガランド州で撮影された映画。
そこで暮らすナガ族、それは16以上の民族の総称で、州内のペク県の人々が歌う「歌」がこのドキュメンタリーの主役だ。

だが、インド南部出身で男女コンビの監督でさえ、各地の音楽を取材するうちこの「歌」を知ったという。
それほど知られていなかった。

美しい。
複雑な多声。
即興で瞬時に編み込まれては消える。


だってこれは、歌のための歌ではない。


歌い手は田畑で働く人。
急な斜面の棚田で過酷な農作業に励みながら、歌う。

だから、建築が生業で畑作業をしないある兄弟は歌えないと話す。
歌が作業をつくり、作業の単位となるムレの結束を確かにし、作業と生活の安全を知らせ喜び合う。


そしてこれは、ただ美しい棚田の景色と歌だけの映画でもない。


ナガ族には、首刈り族の異名もある。
独自の文化を持ちながら、イギリスの植民地支配、インパール作戦による日本軍の侵攻という経緯があって、やむなくインドの支配下に。
以来、半世紀以上も分離独立のための闘争が続き、拷問や強制収容、おそろしい弾圧を受ける間に、各民族の対立も複雑化していった。

知らない素晴らしい歌から、知らない歴史と現実へ。
どんどん知らない場所へ誘いだしていく構成がうまい。

数人に会話をしてもらう形式のインタビューも功を奏している。
お互いへの思いやりや愛情のあり方がわかってくる。

歌詞は「あなたがいなければ真実の愛は見つけられない」と訳されるが、これは私たちが簡単に思い及ぶ「あなた」や「愛」だけを指すだろうか。
作業の仲間、作物を実らせる命の営み、この世があること、万物を歌っているのではないか。

脱穀の作業、歌い踊っての楽しそうな人々を見て、落涙した。
満たされるとはこれかもしれない。




『ニューヨーク、ジャクソン・ハイツへようこそ』はニューヨークのクイーンズ区、ジャクソン・ハイツと呼ばれる地域で撮影された。

189分の街角ウォッチング。
特にスポットライトが 当てられる人物はいない。

古いアパートが立ち並び、住民の多くが移民。
167の言語が飛び交う。


「ここは真のアメリカというべき、人種のるつぼ」と、監督フレデリック・ワイズマンは解説する。
ナレーションなし、テロップなし、スタッフからのインタビューもなし、事前取材は最小限、取材と撮影の同時進行で撮りに撮ったフィルムを精査、編集で作品を作る。
という手法に徹し、たくさんのパワーある作品をつくったドキュメンタリー界の開拓者でトップランナーだ。


移民の街は今、再開発に揺れている。
どう自分たちの生活を続けていくのか。
それは政治にとどまらない日常で、解決は住民によって日々模索され、そこから金言がこぼれ落ちる。


移民は「奪いにきたんじゃない。命と汗を与えにきた」。

移民の理由を聞かれたら「選挙と答える。民主主義を理解してるってわかるから」。

子どもが地元の学校へ通えず外へ出ていくのは「頭脳の流出だ」。


ハッとさせられる。
生活を続けるためには、守るんじゃなくて、変える。
解決に近づけるために、進む。

欠落、不足という恐怖にとりこまれずに、さあ生活を続けよう。


# by hiromi_machiyama | 2018-12-28 22:17 | 雑誌原稿アーカイヴ | Trackback
映画レヴュー 『アンダー・ザ・シルバーレイク』        『運命は踊る』
                『In Red』2018年10月号掲載



闇の陰謀か 神の仕業か
生きづらさを生きる


もしもこの世のすべてがフェアに執り行われ、持って生まれた条件になんら左右されず、運にもいっさい翻弄されることなく、夢をかなえるために必要な情報もすべての人に等しく与えられているとしたら。

そこは天国のようで、地獄かもしれない。

願い通りに生きられない理由のいくらかを心の中で、何かや誰かや運のせいにして、私たちは正気を保っているのだから。

『アンダー・ザ・シルバーレイク』の主人公サムは、一目惚れをする。
監督か脚本家か、とにかく成功を夢見てハリウッドへ出てきたのに結果を出せない、家賃も払えない現実から目をそらしてくれる、夢の美女サラ。
あっけなく知り合うことができ、デートの約束を取り付ける。

でも、彼女は消えた。

なぜ消えたのか、サラは何者なのか。
なにやら大きく深い闇が見えてくる。

才能には秘密のからくりがあった、やっぱり。
金持ちは死に方を選べる、やっぱり。
その謎を解くヒントをサムは次々と見つけ、解読に挑むのだが。

ひどく奇天烈で、けれど切ないミステリー。
たくさんの名作映画、ポップカルチャーに読みつなげられる断片が全編に散りばめられ、それを読み解くのが楽しい映画だが、暗号にこだわらずに見ることもできる。

これは青春映画だから。
サムは長引いた青春の時間が終わることを感じて、もがく。
夢の美女は、故郷を出てきた頃の明るい希望の投影だ。

サム役を演じ映画を引っ張るのは、アンドリュー・ガーフィールド。
近年、心身ともにしんどい大作に次々主演してきたが、今回またも怪優への道をぐっと前に進めた。

監督・脚本のデヴィッド・ロバート・ミッチェルの前作は、大当たりしたホラー『イット・フォローズ』。
期待された次作で、こんなにも俺流の奇想をぶちまけるとは。
ホラーもミステリーも青春方向に引っ張ってしまうこの特性を、注視したい。

華やかな世界には裏があり、その仕組みは隠匿されている。
そう考えることは安らぎだし、処世術としても有効だ。

そして実際、この世はフェアではなく、事故は起こる。
戦争をしている国に生まれてしまったら、戦地に送られることもある。
戦地では事故も起こる。

『運命は踊る』は、戦時でなかったことはほとんどないイスラエルの映画だ。
ある夫婦のもとに、息子の戦死が知らされて、映画が始まる。

この冒頭から、見たことのない映像とその話法に惹きつけられる。
訃報にショックを受ける家族の、室内のシーン。
ただそれだけなのに、意表をつかれることの連続だ。

しかし、その死は誤報。
安堵する間も無く父親は、息子の呼び戻しを強く要求する。
ここまでが第一幕。
ギリシア悲劇を模した、三幕構成だ。

第二幕に登場するのは、兵士とラクダ。
息子は検問所にいた。
兵士たちはみな若い。
通行する車を止め、身元確認の取り調べを行う以外は、ラクダを見送り、缶詰を食べ、仲間と駄話をして宙づりの青春タイムをやり過ごすが、その指はマシンガンの引き金にある。

この、緊張感と退屈が混濁した時間の描き方が素晴らしい。
サミュエル・マオズ監督の才気に惚れ惚れしていると、惨事が起きる。

原題は『フォックストロット』、ダンスのステップの名称だ。
四角を描いて、元の位置に戻る。
民族の遺恨を背負い、戦争を続ける国に生きる、死の近くに生きるということ。
父親は、自分のそして家族の運命を書き換えようとしていたのだが。

偶然を神の仕業と読み変えることの、安らぎと痛み。
世界の裏で動く陰謀に思いめぐらせることで得る、期待と諦め。

どうあれ、生きることはすでにそれだけで困難なのだと、映画は教えてくれる。


# by hiromi_machiyama | 2018-10-15 00:05 | 雑誌原稿アーカイヴ | Trackback
映画レビュー『オーシャンズ8』
          『and GIRL』2018年8月号

峰不二子もいいけれど、そうじゃない女泥棒を待ってました。
「ルパ〜ン♡」なお色気ばかりが武器じゃなく、男の上前をはねるだけでもない。
男を泣かすのは痛快だけれど、いつも横入りでかっさらう、卑怯なやり方しかできないなんて。
もしかして、女をなめてるんじゃない?

『オーシャンズ8』は、男たちがイカす泥棒チームを組んできた「オーシャンズ」の全員レディ版。
そして、シリーズの最高のヒットになっています。興行成績でも、女が男を負かしちゃいました。

ジョージ・クルーニーとブラッド・ピットに代わってチームの中核になるのは、サンドラ・ブロックとケイト・ブランシェット。
ともに60年代生まれです。男性コンビから3歳ほどしか若返ってない、ほぼ50代!

このシリーズは、盗みの面白さと同じくらい、男たちのかっこよさと可愛らしさが魅力。
そのレディ版をつくるにあたって、女たちのかっこよさ可愛らしさを、男の目から見慣れた範囲にとどめてしまったら、ただの男女入れ替え版にとどまってしまう。
例えば、メンバーを若いモデル系美人だけにしてしまうとか。

でも、この映画の製作陣は、自分たちがやるべきことをよくわかっていました。
比べるのも残念ですが、戦艦まで女の子に擬人化して、若い可愛い女の子のイメージを消費する日本の例とはまるで違う。
いろんなタイプのかっこいい女が出てきて、女が見てかっこいいと思うポイントにしっかり目が配られています。

「男が憧れる」から「女が憧れる」へ、は設定についても同様。
用意された盗みの舞台は、ニューヨークのメトロポリンタン美術館で開催され、世界中のファッションセレブが集う、メットガラ。
毎年、ドレスのテーマが設定され、誰が何を着てあらわれたか、SNSでアカデミー賞よりも大騒ぎになる超豪華パーティーです。

このシリーズでは盗みを通して、大金が飛び交うカジノの裏側がわかるのもお楽しみでしたが、今回はメットガラの裏側が。
ドレスやアクセサリーの提供はそんな仕組みになってるのね、とゴシップ的興味をくすぐってきます。
人気デザイナーや有名編集長も、パーティ客としてご本人登場。盗みの行方にハラハラしつつチェックするので、見逃し要注意。

サンドラが演じるのは、クルーニーの妹。犯罪一家に育った盗みの天才のはずが、恋人に騙されて服役していたものの、出所して大勝負を仕掛けます。
パートナーのケイトと狙うのは、人気女優が身につける国宝級のカルティエのネックレス。

その、女優の地位にも男にも強欲な女優をいやーな感じ増量で演じてみせるのはアン・ハサウェイ。
あらためて、頭のいい人なんだと感服させられます。
そして、東海岸最高のハッカー役にはリアーナ。
世間の価値とか常識とか関係ないっす、な振る舞いがイカしてる。

韓国がルーツのラッパー、オークワフィナや、脚本を書きコメディアンでもあるインド系女優、ミンディ・カリング、そして濱田マリっぽいコテコテ演技で笑いをとってくヘレン・ボナム=カーターと、その他のメンバーも配置がうまくいっていて、シリーズで一番少ない「8」はちょうどいい塩梅。

ファッションが素晴らしく楽しいこの映画で、ぬきんでてかっこいいのは男装の麗人っぽいスタイルでキメまくる、ケイト・ブランシェット。
今年はカンヌ映画祭の審査委員長もつとめましたが、リーダーがこんなに似合う人は男優にもそうはいない。
その姿に惚れ惚れして、パンツスーツを買いに走りたくなります。


# by hiromi_machiyama | 2018-08-11 12:07 | Trackback
『ヘリコプターとふんどし』
        早稲田文学2018年春号
        金井美恵子特集       掲載





「しかし、ヘリコプターは音こそすさまじいけれど、おずおずと、しかし興奮はして、何の現場でもない抽象的な上空を舞うだけだ。」

というのは、金井美恵子がテレビだけについて書いた数少ない文章の最後の2行である。

83年10月。
 
田中角栄に東京地方裁判所からロッキード事件において懲役4年追徴金5億円の実刑判決が下るその日の朝、田中邸の上空に集結した報道各社のヘリコプターが撒き散らす騒音は、ご近所に暮らす金井美恵子の眠りを破った。

豪邸の広さを強調することが「テレビ的金権政治の表徴」であるがゆえ、「そこで事件の全てが起きたわけでもないのに、あたかも現場のように上空から撮影され」生中継されたのである。

起こされたその人を、「今さらのように、テレビというものの〈映像〉の芸のなさに驚嘆」させて。

「鉄球とヘリコプター」と題されたこの文章は、同年がテレビ放送30周年にあたるため各所で発表されたアンケートで、最も印象深く記憶されているテレビ番組として浅間山荘事件が上位を占めていたことを参照する。

事件なのに、番組。

72年の浅間山荘事件は確かに、事件の経緯より鉄球が有名だ。

最長の中継時間と最高の視聴率(NHKと民放の合計)を記録したそれはテレビ史に残る現場中継だが、当然ながらカメラは建物の中に入れるはずがなく、たてこもりに至るまでの自撮り映像がネットに転がってるわけもなく、連合赤軍がたてこもる建物の壁に鉄球が打ちつけられそれが壊れていく様が放送時間の少なからずを占めた。

主演、鉄球。

その退屈な時間は「反復的な表徴を産出」し、鉄球と壁の生中継番組が浅間山荘事件と記憶された。

そのならいでテレビは、「大事件であることを強調するために、ヘリコプターを飛ばす」。

あの鉄球のような役は果たせずとも、自分たちのヘリコプターが出す騒音混じりの中継映像は、大事件の緊迫感を増幅させることはできる。

カラだが。






テレビには、実はカラの〈映像〉が多い。

ニュースで昨夜の事件が起きた現場から中継がなされるが、そこでその時間に行われているのは現場検証がせいぜいであって、当然ながら事件ではない。

バラエティは何かが起きるのを楽しみに見てもらうものだが、言いかえれば放送時間の大半は、何かが起きそう、であって、何かが起きてるわけではない。

カラの映像を意味ありげに見せるのは得意で、やり続けていると、カラがカラでなくなると信じられている。

信じればかなう。

そしてテレビは「映像ではなく反復的な表徴を産出」する。

金井美恵子は『反=イメージ論』と題された別の文章でも、職人や芸術家の今まさに作品を作り出している手先よりも眼の、作家については手の、クローズアップを多用することをうんざりと指摘している。

意味がべたべたと貼り付けられたカラの共有に慣れ親しむと、北朝鮮の脅威というカラの号令に、頭を抱えてしゃがみこむことがなんなくできるようにもなる。






それにしても、「何の現場でもない抽象的な上空を舞うだけだ」はいとも手短に、テレビを言い尽くしている。

読んだのは2013年発行のエッセイ選集に収められてからだが、書かれた当時の私はきっとこれを読んだところで、自分がこれから働く職場がこんな短い一文に収納できるとは考え至らなかっただろう。

しかもこの最後の2行でヘリコプターの振る舞いが、期待で顔を火照らせて女の寝室に足を踏み入れた男のごとく描写されているのが、撒き散らされる騒音を高笑いではね返すようで楽しい。

むなしく砕ける騒音の粒が白く濁って見える私は、調子に乗りすぎだ。






だがいつも、調子に乗ってしまう。

金井さん(ここまでもっともらしく金井美恵子と書いてきたが、トークショーにいそいそ出かけて編集者に紹介してもらい、姉の久美子さんもいらっしゃる席で食事をしながらお話できたことは今思い出してもただうれしいので、さんづけが落ち着く)が書いた小説や批評、詩、エッセイを読むと、その脳みそにライドする感覚があり、いや金井さんの脳みそにライドできるなんてそれは明らかに間違いなのだがそう思いこみたくもなる走行感を確かに感じて、それは私を調子に乗らせずにおかない。

ライドすると、スピードを得る。

痛快に進む。

景色はとび去り、後方に片付く。

うひょーと奇声をあげたくなる。
 





という説明はいかにもカラなので、つまりこういうことですと私は、表紙に猫がぬうと構える『ながい、ながい、ふんどしのはなし』を差し出し、その表題作を示す。

金井姉妹がそれぞれ殿山泰司に口説かれた事実も明かされる愉快で鋭利な人物スケッチやエッセイの前に立つ、およそ1300字。

83年の秋に書かれたそれは、引き写そうと刃をいれるのが憚られる美しさゆえ、読んでもらう以外の方法はないのだが、幼児の頃の金井姉妹が寝床で父親にねだると、空を見上げたら白い布がながながと落ちてきてそれはふんどしだったというおはなしが繰り返し披露された。

白い布がただ落ちてくるだけで、意味も物語もない。

そして、おねだりから語りを聞いて眠りに落ちるまでは毎回同じような段取りで、形式化されたそれをなぞること全体が楽しいお遊戯だったという。

そしてここでまた私は冒頭と同じく、最後の2行を引き写す無策をさらすが、それに勝る手がないから仕方がない。






「その後で父親はすぐ死んだので、無意味に白くきらめきながら際限もなく落ちて来る布は、その後、わたしが書くようになった「言葉」そのもののように見えるのだ。」






金井さんの文章を読む。

私はながい、ながい、ながあいふんどしにライドする。

うまく乗れなくて、ふんどしの端をつかんでびゅんびゅんと振り回されるばかりで、落ちているのかのぼっているのかも判然としないが、気分がいい。

奇声をあげる。

進め進め、ふんどし。


# by hiromi_machiyama | 2018-07-18 23:15 | 雑誌原稿アーカイヴ | Trackback
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