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映画レヴュー『ヴィヴィアン・ウエストウッド 最強のエレガンス』 『ザ・スリッツ:ヒア・トゥ・ビー・ハード』
                 『In Red』2019年1月号掲載



好きな服を着よう
自分が好きな服を


ココ・シャネルがジャージ素材を採用した時。
マリー・クワントが、ミニスカートを提案した時。

女の服装が「あるべき姿」からはみだすと、社会は嫌悪で迎えた。
見える景色が変わることに、社会の変化を察知するからだろう。
女は景色じゃないのにね。


だからこそ、ファッションは面白い。
自分が着たい服を着るのは、けっこう大事なことだ。



70年代のはじめにロンドンで音楽と同時発生で生まれ、今はファッション においてジャンルやテイストのひとつに落ち着いているパンクは、登場した時、 社会からとりわけ嫌悪された。
そのファッションの生みの親で、以降40年、最前線に居続けるその人に3年間密着したドキュメントが、『ヴィヴィアン・ウエストウッド 最強のエレガンス』だ。


全部見せてくれる。
なにしろ、ブランドのコレクションは現在、ヴィヴィア ン自身は指揮にまわり、25歳年下の夫アンドレアスがつくってること、元は彼女の教え子だった夫が現場を率いるのにスタッフが不満を持っていることなんかが、明かされてしまうのだ。

そしてこの映画は、ヴィヴィアンが拘束衣をヒントに発明し、セックス・ピストルズのメンバーが着て社会に衝撃を与えたはずのその服が、今や博物館に保存され、学芸員がうやうやしく開陳するその様子に荘厳なクラシックを流して、なにやら茶化してみせもする。
偉業だけれど、これって死体だよね、とでも言いたげに。


ヴィヴィアン自身も、パンクは、唾する者も受け入れる英国社会の懐の深さを喧伝しただけ、社会を変えられなかったと振り返る。


では諦めたのかといえば、全然違う。
最近もデモの先頭に立ち、熱心な活動 でスタッフを困らせたりしている。


周りにモデルがいようと、その場で一番、自分の服をかっこよく着こなしているヴィヴィアン77歳。
ビジネスの巨大化グループ化が進むファッション界で、DIY=自分で作るというパンクの精神を譲らず、独立して事業を続けられているのは、過去の二人の夫との間の息子たちも、52歳の時に結婚した年下夫も彼女への敬愛を深めるばかりなのは、なぜか。


だんだん見えてくる。
今も店に自転車で通うように、自分の頭で考え続けて、安住しない。

ヴィヴィアンの信条は、疑問を持ち続けて、かかわり続けること。
それは、自分自身を手放さないための確かな方法だ。




二人目の夫マルコム・マクラーレンが、 夫婦で経営する店「SEX」の店員と常連を束ねてピストルズをつくった頃。同じくロンドンで、「バンドをやりたい」と動き出してる女の子たちがいた。

76年に結成された、世界初の、女の子だけのパンクバンドをそのはじまりからたどるドキュメンタリーが『ザ・スリッツ:ヒア・トウ・ビー・ハード』。
スリッツが意味するのは、女性の身体の真ん中に開いてるあの部分でもあり。


バンドの支柱、ボーカルのアリ・アップは、結成当時14歳だった。
残っている映像はあまり多くない。
「歴史から消された」と研究者の女性は憤る。



あらゆる権威に歯向かうはずのパンクは、暴力性を高めるうちに男性優位主義を強め、ナショナリズムにさえ接近していった。
スリッツは短い活動期間ながら、自分たちの音楽を探し、ステージで踊りまくり、レゲエやエスニックなサウンドにも自由に触手を伸ばしていく。
闘いながら。



ベースのテッサが部屋でスクラップブックを読み返す様子を親密な縦糸に、みんなに「できる」と思わせてくれた、亡きアリ・アップという中心の空白に収斂していく構成に愛がある。


女の子が好きな服を着てるだけで殴られた時代に、好きな服を着て言いたいことを言うんだ!と闘って、自分たちだけの表現を探し続けた。
勇敢な、世界初の行動は、現状に疑間を持つ後輩たちを鼓舞し続ける。


by hiromi_machiyama | 2019-01-01 21:03 | 雑誌原稿アーカイヴ | Trackback
映画レヴュー  『アリー/スター誕生』   
                 『and GIRL』2019年1月号





『スター誕生』は、歴史の浅い国そして映画の国、アメリカにおける神話です。

1937年に映画『スタア誕生』が作られ、リメイクは54年、76年、そして『アリー/スター誕生』が3回目。
そのストーリーをヒントとする映画も、近年の『ラ・ラ・ランド』など多数。
アカデミー賞受賞作にもたくさんあります。


そんな神話の再生ゆえ、主演ビヨンセ&監督クリント・イーストウッドという企画がながれた後、大いに注目を浴びて制作に。
もともと女優志望でもあったレディー・ガガがついに初の主演に挑み、監督は俳優としての成功は申し分ないものの、演出の力量は未知数のブラッドリー・クーパー。

その結果は、興行成績も評価も上々。
アカデミー賞ノミネートも確実視されています。



そしてこの映画、ちょっと意外な仕上がりです。



まず、神話のあらすじをあらためて。
手の届かない夢を諦めかけていた女性が、スターである男性に見出され、ステージへ。
彼女の才能は開花、大きく実っていきます。
互いの素晴らしさを他の誰よりもよく知るふたりは愛し合いますが、やがて人気が逆転。
男性はそれまでの活動で頼ってきたアルコールやドラッグに心身を蝕まれていて、その苦境はさらに深まり、やがて別れが。


オリジナル版では映画スター、76年版からミュージシャンの物語になり、今回も音楽業界が舞台です。


この物語は、主役の女優を輝かせる役どころとしても周知されています。

冴えないその他大勢だった女性が、どんどん輝いていくその変貌ぶり。
愛情にも恵まれる夢の日々で満たされたはずが、次第に傷ついていくその痛み。
さらには愛する人への献身、絶望、そして最後にどんな表情を見せるか。
見せ場がぎっしりの作品だからです。



しかも、54年版のジュディ・ガーランド、76年版のバーブラ・ストライサンドがそうだったように、すでにスターである女性が業界内恋愛を演じることの面白さ。
ご本人と役柄が重なる、きっとこんな恋愛も体験したに違いない、と少々下世話な興味を誘うのもこの映画のお楽しみ。

実に要求される要素の多い役柄なわけですが、ガガは満額回答。
歌唱はもちろん、演技も「ガガ様が演技してる」という雑音を感じさせません。
特に、怒りを表現すると輝いて、その熱には圧倒されます。
自身で作った楽曲も、器用にジャンルを横断しつつ心に刺さるもので、あらためてアーティストとしての懐の深さにうならされます。



そうなんですがこの映画、今までの3作と一番違うのは男性側の比重が大きく、終わってみれば、脚本作りにも参加したブラッドリー・クーパーが主役にさえ思えてくること。



冒頭は76年版のクリス・クリストファーソンへの憧れを隠さない、低い声を作ってのなりきりぶりにとまどいましたが、それをちゃんと自分のものにして。
さらにはその、もがき堕ちていくスターの背景を今までになくていねいに描いて、有名すぎる物語に新味を加えています。

ガガ率いる楽曲制作にも参加し、天下のガガ様と同様に、口パクなしの撮影現場でのナマ歌唱に挑み、なんと有名フェスのステージに上がってのなかばゲリラ的な撮影さえも。
完全に出演者目線で撮られたライブシーンは、とても新鮮かつ濃厚な臨場感。



女優を輝かせる神話で自分をかっこよく見せちゃうクーパーに、感服しました。
そしてガガ、演技も歌も素晴らしいだけに、この役そしてこの役を演じた先輩みたいに、私生活で苦悩を重ねずにすむよう、ついお節介な願いをかけてしまいました。


by hiromi_machiyama | 2018-12-30 22:17 | 雑誌原稿アーカイヴ | Trackback
映画レヴュー       『メアリーの総て』  
                『and GIRL』2018年12月号


「若い女に絶望や苦悩は表現できないと思っているのですかっ!」
その咆哮に、心臓が凍りつく痛みと、血が湧き立つ情熱を感じるために、映画館へ走ってください。

これだけで伝わる人には十分伝わるはずですから、もう原稿を終わらせてもいいくらいですが、蛇足を書けば、これは200年前に、19歳の女性があげた怒りの声。

声の主は、メアリー・シェリー。
『フランケンシュタイン』の著者です。

その登場人物は世界に知られ、長く読み継がれ、書き込まれた思いが多くの人を刺激し続ける小説。
メアリーはわずか18歳のときに書き始めました。

何が彼女をそうさせたのか。
女性に投票する権利さえなかった19 世紀のイギリスで、この傑作の着想を得て、ついに書き上げるまでの苦悩と絶望と復活を描くのが、『メアリーの総て』。
史実に基づいています。



エル・ファニングが、メアリーに。
この映画が作られるときに彼女がまだ10代だったことを喜びたい、申し分のないキャスティング。

さらに監督は、映画館の設置が法で禁じられているサウジアラビアで「初の女性監督」になったハイファ・アル=マンスール。
彼女にとって、女性の権利や選択が大幅に制限されている社会は身近なものです。



映画は16歳のメアリーの、詩人パーシー・シェリーとの出会いから。
一目で心惹かれた彼は、父親に弟子入りしてくることに。

父親は書店を営みつつ、無政府主義をとなえる学者。
メアリーはそんな父親を慕いつつ、自分を産んで亡くなった母親に少しの罪悪感と多大な敬愛を抱いている。
女性の権利拡大を訴えたくさんの著書を残した急進的な思想家で、結婚についても独自の考えを持ち、両親は3人婚を。
今は、そのもう1人の妻や彼女の子どもたちと暮らしていて、居心地はよくないけれど、年齢が近い義理の妹は親 友のような存在でもあり。

メアリーはパーシーとの結婚を願うものの、彼には妻子が。
しかし身ごもり、妹もまた、現在の日本にも信奉者の多い大詩人に惹かれ、乱れた交遊で有名な彼と深い関係に。



メアリーは・パーシーとの間に、愛と信頼を実らせることができるのでしょうか。
愛も裏切りも次々と荒波のようにメアリーをのみこもうとしてくるなかで、世界を変える傑作はどのように書かれるのでしょうか。



メアリーはたくさんの死に立ち会います。
運命の過酷さには抗えないと、身をもって知ることに。

そして、強烈な喜びと苦しみをもたらして彼女を変えてしまうパーシーを、この映画はフランケンシュタイン博士と重ね合わせてみせます。
そう、フランケンシュタインとは死体をツギハギして作られた醜い怪物ではなく、怪物を作った博士のこと。
メアリーは自分のうちに身もだえる醜く破壊的な感情を怪物に託してもいたのでしょう。

小説『フランケンシュタイン』のタイトルは実は、『あるいは現代のプロメテウス』と続きます。
ギリシア神話で神の世界から火を盗んで人類にもたらす人類創造の神を、博士に重ねたのですが、メアリーもまたプロメテウス的な存在となりました。

この小説はSFの開祖と言われ、手紙で構成された形式もひとつの発明でしたし、悪が確定せず存在の不安を問う物語も新しく、後の小説や映画に絶大な影響を与えました。

この映画で語られない部分はありますが、恋愛のすったもんだを見届けつつ、冒頭の言葉に立ち合い、
さらに「●●が、私を創った」という至言にどうぞ圧倒されてください。
苦しみ憎しみに溺れたとき、浮き輪になってくれるはずです。


by hiromi_machiyama | 2018-12-29 23:59 | 雑誌原稿アーカイヴ | Trackback
映画レヴュー       『あまねき旋律』                                        『ニューヨーク、ジャクソンハイツへようこそ』    
                                  
                『In Red』2018年11月号掲載



ともに生活すること
働くこと歌うこと


例えば、都心で生まれ育った私は1、 2カ月おきに数日間を那覇で暮らすことにして2年になるが、場所で人は変わると思う。

那覇の街猫は落ち着いていて、人が近づいても首をあげチラ見したらまた寝てしまうし、なんなくお腹を見せてくる。私もそんな感じになる。

でも、羽田を出たらもう、行列がもたつけば原因を探ろうとしてしまう。
よけいな恐怖心のせいだ。




『あまねき旋律』はインド東北部、ミャンマーとの国境近くにあるナガランド州で撮影された映画。
そこで暮らすナガ族、それは16以上の民族の総称で、州内のペク県の人々が歌う「歌」がこのドキュメンタリーの主役だ。

だが、インド南部出身で男女コンビの監督でさえ、各地の音楽を取材するうちこの「歌」を知ったという。
それほど知られていなかった。

美しい。
複雑な多声。
即興で瞬時に編み込まれては消える。


だってこれは、歌のための歌ではない。


歌い手は田畑で働く人。
急な斜面の棚田で過酷な農作業に励みながら、歌う。

だから、建築が生業で畑作業をしないある兄弟は歌えないと話す。
歌が作業をつくり、作業の単位となるムレの結束を確かにし、作業と生活の安全を知らせ喜び合う。


そしてこれは、ただ美しい棚田の景色と歌だけの映画でもない。


ナガ族には、首刈り族の異名もある。
独自の文化を持ちながら、イギリスの植民地支配、インパール作戦による日本軍の侵攻という経緯があって、やむなくインドの支配下に。
以来、半世紀以上も分離独立のための闘争が続き、拷問や強制収容、おそろしい弾圧を受ける間に、各民族の対立も複雑化していった。

知らない素晴らしい歌から、知らない歴史と現実へ。
どんどん知らない場所へ誘いだしていく構成がうまい。

数人に会話をしてもらう形式のインタビューも功を奏している。
お互いへの思いやりや愛情のあり方がわかってくる。

歌詞は「あなたがいなければ真実の愛は見つけられない」と訳されるが、これは私たちが簡単に思い及ぶ「あなた」や「愛」だけを指すだろうか。
作業の仲間、作物を実らせる命の営み、この世があること、万物を歌っているのではないか。

脱穀の作業、歌い踊っての楽しそうな人々を見て、落涙した。
満たされるとはこれかもしれない。




『ニューヨーク、ジャクソン・ハイツへようこそ』はニューヨークのクイーンズ区、ジャクソン・ハイツと呼ばれる地域で撮影された。

189分の街角ウォッチング。
特にスポットライトが 当てられる人物はいない。

古いアパートが立ち並び、住民の多くが移民。
167の言語が飛び交う。


「ここは真のアメリカというべき、人種のるつぼ」と、監督フレデリック・ワイズマンは解説する。
ナレーションなし、テロップなし、スタッフからのインタビューもなし、事前取材は最小限、取材と撮影の同時進行で撮りに撮ったフィルムを精査、編集で作品を作る。
という手法に徹し、たくさんのパワーある作品をつくったドキュメンタリー界の開拓者でトップランナーだ。


移民の街は今、再開発に揺れている。
どう自分たちの生活を続けていくのか。
それは政治にとどまらない日常で、解決は住民によって日々模索され、そこから金言がこぼれ落ちる。


移民は「奪いにきたんじゃない。命と汗を与えにきた」。

移民の理由を聞かれたら「選挙と答える。民主主義を理解してるってわかるから」。

子どもが地元の学校へ通えず外へ出ていくのは「頭脳の流出だ」。


ハッとさせられる。
生活を続けるためには、守るんじゃなくて、変える。
解決に近づけるために、進む。

欠落、不足という恐怖にとりこまれずに、さあ生活を続けよう。


by hiromi_machiyama | 2018-12-28 22:17 | 雑誌原稿アーカイヴ | Trackback
映画レヴュー 『アンダー・ザ・シルバーレイク』        『運命は踊る』
                『In Red』2018年10月号掲載



闇の陰謀か 神の仕業か
生きづらさを生きる


もしもこの世のすべてがフェアに執り行われ、持って生まれた条件になんら左右されず、運にもいっさい翻弄されることなく、夢をかなえるために必要な情報もすべての人に等しく与えられているとしたら。

そこは天国のようで、地獄かもしれない。

願い通りに生きられない理由のいくらかを心の中で、何かや誰かや運のせいにして、私たちは正気を保っているのだから。

『アンダー・ザ・シルバーレイク』の主人公サムは、一目惚れをする。
監督か脚本家か、とにかく成功を夢見てハリウッドへ出てきたのに結果を出せない、家賃も払えない現実から目をそらしてくれる、夢の美女サラ。
あっけなく知り合うことができ、デートの約束を取り付ける。

でも、彼女は消えた。

なぜ消えたのか、サラは何者なのか。
なにやら大きく深い闇が見えてくる。

才能には秘密のからくりがあった、やっぱり。
金持ちは死に方を選べる、やっぱり。
その謎を解くヒントをサムは次々と見つけ、解読に挑むのだが。

ひどく奇天烈で、けれど切ないミステリー。
たくさんの名作映画、ポップカルチャーに読みつなげられる断片が全編に散りばめられ、それを読み解くのが楽しい映画だが、暗号にこだわらずに見ることもできる。

これは青春映画だから。
サムは長引いた青春の時間が終わることを感じて、もがく。
夢の美女は、故郷を出てきた頃の明るい希望の投影だ。

サム役を演じ映画を引っ張るのは、アンドリュー・ガーフィールド。
近年、心身ともにしんどい大作に次々主演してきたが、今回またも怪優への道をぐっと前に進めた。

監督・脚本のデヴィッド・ロバート・ミッチェルの前作は、大当たりしたホラー『イット・フォローズ』。
期待された次作で、こんなにも俺流の奇想をぶちまけるとは。
ホラーもミステリーも青春方向に引っ張ってしまうこの特性を、注視したい。

華やかな世界には裏があり、その仕組みは隠匿されている。
そう考えることは安らぎだし、処世術としても有効だ。

そして実際、この世はフェアではなく、事故は起こる。
戦争をしている国に生まれてしまったら、戦地に送られることもある。
戦地では事故も起こる。

『運命は踊る』は、戦時でなかったことはほとんどないイスラエルの映画だ。
ある夫婦のもとに、息子の戦死が知らされて、映画が始まる。

この冒頭から、見たことのない映像とその話法に惹きつけられる。
訃報にショックを受ける家族の、室内のシーン。
ただそれだけなのに、意表をつかれることの連続だ。

しかし、その死は誤報。
安堵する間も無く父親は、息子の呼び戻しを強く要求する。
ここまでが第一幕。
ギリシア悲劇を模した、三幕構成だ。

第二幕に登場するのは、兵士とラクダ。
息子は検問所にいた。
兵士たちはみな若い。
通行する車を止め、身元確認の取り調べを行う以外は、ラクダを見送り、缶詰を食べ、仲間と駄話をして宙づりの青春タイムをやり過ごすが、その指はマシンガンの引き金にある。

この、緊張感と退屈が混濁した時間の描き方が素晴らしい。
サミュエル・マオズ監督の才気に惚れ惚れしていると、惨事が起きる。

原題は『フォックストロット』、ダンスのステップの名称だ。
四角を描いて、元の位置に戻る。
民族の遺恨を背負い、戦争を続ける国に生きる、死の近くに生きるということ。
父親は、自分のそして家族の運命を書き換えようとしていたのだが。

偶然を神の仕業と読み変えることの、安らぎと痛み。
世界の裏で動く陰謀に思いめぐらせることで得る、期待と諦め。

どうあれ、生きることはすでにそれだけで困難なのだと、映画は教えてくれる。


by hiromi_machiyama | 2018-10-15 00:05 | 雑誌原稿アーカイヴ | Trackback
『ヘリコプターとふんどし』
        早稲田文学2018年春号
        金井美恵子特集       掲載





「しかし、ヘリコプターは音こそすさまじいけれど、おずおずと、しかし興奮はして、何の現場でもない抽象的な上空を舞うだけだ。」

というのは、金井美恵子がテレビだけについて書いた数少ない文章の最後の2行である。

83年10月。
 
田中角栄に東京地方裁判所からロッキード事件において懲役4年追徴金5億円の実刑判決が下るその日の朝、田中邸の上空に集結した報道各社のヘリコプターが撒き散らす騒音は、ご近所に暮らす金井美恵子の眠りを破った。

豪邸の広さを強調することが「テレビ的金権政治の表徴」であるがゆえ、「そこで事件の全てが起きたわけでもないのに、あたかも現場のように上空から撮影され」生中継されたのである。

起こされたその人を、「今さらのように、テレビというものの〈映像〉の芸のなさに驚嘆」させて。

「鉄球とヘリコプター」と題されたこの文章は、同年がテレビ放送30周年にあたるため各所で発表されたアンケートで、最も印象深く記憶されているテレビ番組として浅間山荘事件が上位を占めていたことを参照する。

事件なのに、番組。

72年の浅間山荘事件は確かに、事件の経緯より鉄球が有名だ。

最長の中継時間と最高の視聴率(NHKと民放の合計)を記録したそれはテレビ史に残る現場中継だが、当然ながらカメラは建物の中に入れるはずがなく、たてこもりに至るまでの自撮り映像がネットに転がってるわけもなく、連合赤軍がたてこもる建物の壁に鉄球が打ちつけられそれが壊れていく様が放送時間の少なからずを占めた。

主演、鉄球。

その退屈な時間は「反復的な表徴を産出」し、鉄球と壁の生中継番組が浅間山荘事件と記憶された。

そのならいでテレビは、「大事件であることを強調するために、ヘリコプターを飛ばす」。

あの鉄球のような役は果たせずとも、自分たちのヘリコプターが出す騒音混じりの中継映像は、大事件の緊迫感を増幅させることはできる。

カラだが。






テレビには、実はカラの〈映像〉が多い。

ニュースで昨夜の事件が起きた現場から中継がなされるが、そこでその時間に行われているのは現場検証がせいぜいであって、当然ながら事件ではない。

バラエティは何かが起きるのを楽しみに見てもらうものだが、言いかえれば放送時間の大半は、何かが起きそう、であって、何かが起きてるわけではない。

カラの映像を意味ありげに見せるのは得意で、やり続けていると、カラがカラでなくなると信じられている。

信じればかなう。

そしてテレビは「映像ではなく反復的な表徴を産出」する。

金井美恵子は『反=イメージ論』と題された別の文章でも、職人や芸術家の今まさに作品を作り出している手先よりも眼の、作家については手の、クローズアップを多用することをうんざりと指摘している。

意味がべたべたと貼り付けられたカラの共有に慣れ親しむと、北朝鮮の脅威というカラの号令に、頭を抱えてしゃがみこむことがなんなくできるようにもなる。






それにしても、「何の現場でもない抽象的な上空を舞うだけだ」はいとも手短に、テレビを言い尽くしている。

読んだのは2013年発行のエッセイ選集に収められてからだが、書かれた当時の私はきっとこれを読んだところで、自分がこれから働く職場がこんな短い一文に収納できるとは考え至らなかっただろう。

しかもこの最後の2行でヘリコプターの振る舞いが、期待で顔を火照らせて女の寝室に足を踏み入れた男のごとく描写されているのが、撒き散らされる騒音を高笑いではね返すようで楽しい。

むなしく砕ける騒音の粒が白く濁って見える私は、調子に乗りすぎだ。






だがいつも、調子に乗ってしまう。

金井さん(ここまでもっともらしく金井美恵子と書いてきたが、トークショーにいそいそ出かけて編集者に紹介してもらい、姉の久美子さんもいらっしゃる席で食事をしながらお話できたことは今思い出してもただうれしいので、さんづけが落ち着く)が書いた小説や批評、詩、エッセイを読むと、その脳みそにライドする感覚があり、いや金井さんの脳みそにライドできるなんてそれは明らかに間違いなのだがそう思いこみたくもなる走行感を確かに感じて、それは私を調子に乗らせずにおかない。

ライドすると、スピードを得る。

痛快に進む。

景色はとび去り、後方に片付く。

うひょーと奇声をあげたくなる。
 





という説明はいかにもカラなので、つまりこういうことですと私は、表紙に猫がぬうと構える『ながい、ながい、ふんどしのはなし』を差し出し、その表題作を示す。

金井姉妹がそれぞれ殿山泰司に口説かれた事実も明かされる愉快で鋭利な人物スケッチやエッセイの前に立つ、およそ1300字。

83年の秋に書かれたそれは、引き写そうと刃をいれるのが憚られる美しさゆえ、読んでもらう以外の方法はないのだが、幼児の頃の金井姉妹が寝床で父親にねだると、空を見上げたら白い布がながながと落ちてきてそれはふんどしだったというおはなしが繰り返し披露された。

白い布がただ落ちてくるだけで、意味も物語もない。

そして、おねだりから語りを聞いて眠りに落ちるまでは毎回同じような段取りで、形式化されたそれをなぞること全体が楽しいお遊戯だったという。

そしてここでまた私は冒頭と同じく、最後の2行を引き写す無策をさらすが、それに勝る手がないから仕方がない。






「その後で父親はすぐ死んだので、無意味に白くきらめきながら際限もなく落ちて来る布は、その後、わたしが書くようになった「言葉」そのもののように見えるのだ。」






金井さんの文章を読む。

私はながい、ながい、ながあいふんどしにライドする。

うまく乗れなくて、ふんどしの端をつかんでびゅんびゅんと振り回されるばかりで、落ちているのかのぼっているのかも判然としないが、気分がいい。

奇声をあげる。

進め進め、ふんどし。


by hiromi_machiyama | 2018-07-18 23:15 | 雑誌原稿アーカイヴ | Trackback
映画レヴュー『バトル・オブ・ザ・セクシーズ』         『母という名の女』
               『In Red』2018年7月号掲載



男女を超えてみせた女 女に囚われつづける女
 
女は。
男は。
日本人は。
関西人は。
港区民は。
射手座は。
B型は。
決めつける面白さというのはあるし、失望を慰撫してくれるし、根拠のない希望も時にはほしいし。

でも他人に向けるとなれば、話は別だ。
本人が変えられない属性にはめて決めつければ、容易にそれは差別に堕ちる。
そして、自分自身を枠にはめ歪めてしまうこともある。

『バトル・オブ・ザ・セクシーズ』は45年前の史実の映画化。
女子と男子のチャンピオンが戦った。
プロレスじゃなくて、テニスでだ。

きっかけは女子と男子の優勝賞金の格差。
キャリアも人気も十分な29歳のビリー・ジーン・キングは格差に怒り、既存の協会を脱会、仲問と女子テニス協会を発足させる。

男女平等を訴える運動の高まりという時代の追い風を受けつつ、注目と非難を受けて奮闘する彼女に、挑戦状を叩きつけたのは55歳の元チャンピオン、ボビー・リッグス。
男性優位で当たり前でしょ、こっちが強いんだから、とビリー・ジーンを女性たちを挑発。

男女の戦いはどうなるのか。
それぞれが抱える家庭の事情、愛の困難とともに描いていく。

監督は青春映画『ルビー・スパークス』で、男子と女子の願望のすれ違いを描いた、夫婦コンビ。
現在も変革を求め活動を続けるビリー・ジーン・キングの英雄譚におさまりかねない題材を、女性蔑視に囚われた社会は男性にとっても苦しいよねと、笑わせながら浮き掘りにする。

ビリー・ジーンを演じるエマ・ストーンがいい。
強さと迷い。
恋の場面は、ロマンティックで痛みがあって、彼女のこれまでのどの映画のラブシーンより記憶に残る。
メタルフレームのメガネを真似したくなる。

ボビー役はスティーブ・カレル以外に考えられない。
悪態と狂騒の下の、歪みと痛みが愛おしい。
そして、アラン・カミングがこれまたハマり役の、女子テニス協会を盛り上げた実在のデザイナー。
その仕事ぶり、当時のファッションもわくわくする見どころだ。

「強い男、守られる女」という、今も社会を固めている思い込みを、非難するんじゃなく、実態に即してませんよね、幻想に縛られてるとみんながしんどいでしょ、と軽やかに否定する。
フェアで痛快な映画だ。

逆に『母という名の女』は「女」 が暴走するホラーである。

女は、「守られるべき」存在として押さえ込まれなから、母性本能という「守る」能力も同時に期待されている。
この矛盾も厄介だが、そもそも各自が本能を制御することで秩序が保たれているはずの社会で、「本能」を期待されるのも、また矛盾。
 
そして、最近の社会は女に「ずっと若く美しく」も要請する。
恋愛市場で現役としての価値を持つことも、奨励する。
すべては、消費を促すため。

この映画の母、アブリルはそんな社会の期待を全部満たしている。
娘二人を育て、早くも孫を持つことになり、美しく色っぽいヨガのインストラクター。
その彼女が欲望を、さらに追い求めたらどうなるか。

幼子を抱く母。
それが最高に美しい姿だと社会が讃えるなら、それを目指すのが、欲望の果てとなる。

前作『或る終焉』で、「高齢化社会で人間がよく生きる」難しさを物語にして強烈なラストをかましてみせたメキシコ出身のミシェル・フランコ監督。
今回も「女と本能と社会」という厄介な問題を、理屈からスリリングな物語に昇華。不穏がじわじわと侵食、ぞっとする結末が。

男、女、母。
なにかの枠の中におさまるのは、安心。
自分という点に立つとぐらぐらしてこわいけれども、点に立てる人はかっこいい。

by hiromi_machiyama | 2018-07-15 19:54 | 雑誌原稿アーカイヴ | Trackback
信濃毎日新聞「怪しいテレビ欄」2018/2/21
「普段スクープされる側の芸能人が個人の見解を話しに集まるワイドショー番組です」とただし書きが提示される、フジテレビの「ワイド ナショー」。

国際政治学者の肩書で出演した三浦瑠麗の発言が、取りざたされています。

東野幸治と山崎タ貴アナが進行し、松本人志がコメンテーターとして番組の中心に構えるこの番組。

くだんの放送 は、松本が「瑠麗さんって酒飲んだらめっちゃエロくなるって」と言い出し、嬉(うれ) しそうに笑って「自分でもよくわからない」と三浦に転がされた松本が「エロっ!」。

山崎アナが「喜びすぎですよ」とあきれる展開で始まりました。

その後、冒頭のただし書きがあって、本編へ。

平昌オリンピックについてまずVTRで、関本式前日に軍事パレードを行った北朝鮮が選手団を派遣、日韓首脳会談も行われ、オリンピックが外交の舞台になっているという問題提起がありました。

そのVTRを受けて東野に「どうですか」とふられた三浦は、軍事力を見せつけつつ、女性応援団などで融和を演出する 北朝鮮の梶棒(こんぼう)外交」がまんまと成功しているという解説を披露。

すると隣の長嶋一茂が、韓国の人から実際に話を聞いたところでは、脅しに屈してもいないし融和ムードにのせられてもいない、「まったく疑わしい」と三浦解説を覆しました。

笑顔をキープしていた三浦に再び東野が水を向けると、「実際に戦争が始まったら」と話を展開させ、「テロリストが仮に金正恩さんが殺されても、スリーパーセルと一言われて、もう指導者が死んだっていうのがわかったら、もう一切外部との連絡を断って都市で動き始める、スリーパーセルっていうのが活動すると言われているんですよ」「テロリスト分子がいるわけですよ。それがソウルでも、東京でも、もちろん大阪でも。今 けっこう大阪やばいって言われていて」「潜んでます」。

この一連の発言に、在日コリアンへの憎悪を煽(あお)りかねないと批判が起きています。

これを受けてのブログや取材での三浦の発言も、批判を一層強めることに。

なぜフジテレビはこの発言を放送したのでしょうか。

「言われていて」などと不用意に広められた、根拠の不明瞭なうわさ話が、民族憎悪の惨劇を扇動した例は、歴史上繰り返されています。

さらに日本と在日コリアンの歴史と現状についても鑑みれば、この発言が放送されるべきではないのに、なぜそうならなかったのか。

バラエティーだし、ただし書きがあるし、オープニングのやりとりが示すように三浦もタレント的な存在だから問題ないと考えたのか。

そもそも歴史をご存じないのか。

そしてなにより、最近の在日コリアンへの冷たい世情をまったく感じていないのか。

答えが知りたい。


          


by hiromi_machiyama | 2018-04-29 20:28 | 雑誌原稿アーカイヴ | Trackback
映画レビュー『ラブレス』『ラッキー』
『In Red』2018年4月号掲載



生きることはほしいこと でも本当にそうかしら?


 
社会にとって価値があるかないか。

そういう基準を提示して虐殺を正当化したのはナチスだが、その考えは様相を変えて受け継がれ、脱工業化を経た現在の消費社会では消費能カの高い人間こそが尊ばれる。
より多くほしがることこそ社会への積極参加であり、貢献であり。

『ラブレス』はそれがどんな冷たい地獄かを記す、警告の書だ。
凄まじい完成度で、あなたたちがいるのはここだと突きつける。

ロシアの郊外の瀟洒なマンション。
一流企業に勤める夫、美容サロンを営む妻。
離婚を決めお互いに新しいパートナーがいる。
妻より若い女、夫より経済力のある男。
これまで以上の幸せを得る気満々だから、今の停滞にはイラつくばかりだ。
11歳の息子を相手に押しつけてしまって、早く次へ進みたい。

そんな時、息子が行方不明になる。
夫婦は彼を探すが、果たして。

アンドレイ・ズビャギンツェフ監督の脚本と演出は冷徹この上ない。
息子が消えて悲しい、この夫婦にもそういう感情はあるが、それは誰かに見返りや謝罪を要求する為の道具にすぐに転じる。
なにしろ彼らがひたすら求めるのは他人から羨望される、満たされた「自分」だ。
そういう「自分」を損なう要素は排除したい。
人間的で素直な感情であろうと。
満されたくて悲しみすら持続できないのだ。
ただただほしがって。

社会のシステムもそれを歓迎していることを、怠惰で官僚的な警察を好例に描く一方で、監督が示す唯一の希望は報酬もなく普意で不明者を捜索する人々だ。
一列に並び、声を掛け合い、冷たい森を進む彼らの姿は、大きなカに抗う神話の中の闘士の荘巌さ。
凍えた胸が震えた。

もはや他に手はないのだろうか。
『ラッキー』には別の答えがある。

昨年9月に91歳で亡くなった俳優ハリー・ディーン・スタントンの人生を取材し、ご本人が主演した。
演じるのは、荒野の小さな町の小さな家に独居する男、ラッキー。

いわく「孤独と一人暮らしは意味が違う」。
毎朝目覚めるとタバコを1服し、ヨガの5ポーズを21回ずつ、またタバコを吸い、コーヒーを飲み、近所のダイナーで軽口を言い合い、クイズ番組を見て夜はまた行きつけのバーへ。
その繰り返し。

そこにすっと、繰り返しが終わる予感が忍び込む。
そして、軌道がすこしだけ変わる。

それだけの話なのに深く静かな場所へ連れて行ってくれるこの映画で、達者な演技を披露するデヴィッド・リンチをはじめ、クセの強い監督たちが重要な脇役を任せてきたのが、俳優スタントン。

幼い頃の、そして従軍中の沖縄での体験など、彼が話していたことを散りばめた脚本は、長く近くにいたアシスタントたちがまとめたもので、監督は脇役俳優の後輩ジョン・キャロル・リンチ。

映画の中で出会ってほしいから引用するのがもったいない哲学的な至言の数々がつぶやかれるが、決してラッキーは達観しているわけではない。
死を恐れ、同性愛者を嫌ったり女性を傷つけた昔とも向き合う。

克服できない過去、癒しがたい悲しみ。
それらを抱えてラッキーは立っている。

敬愛に満ちたこの映画で彼が大好きなマリアッチを従えて歌うラブソングの美しさ。
「降伏する準備はできている」、愛とはそういうものだろうし、勝ってほしがるだけの人生に価値はあるのか。

真実には実体があるが、それさえやがて消える。
永遠はなく、手元には何も残らない。
そう承知で、他人に「好きにすりゃいい」と言えて無の暗い深淵に微笑みを返せる人。

できることなら、かくありたい。






by hiromi_machiyama | 2018-04-14 21:56 | 雑誌原稿アーカイヴ | Trackback
23                  
                 「スチャダラパー余談5」掲載

6月頃、スチャダラパー23周年の野音ライブで物販された読み物「余談5」に書いた原稿。
どういうわけか、2013年に一番ひとからホメられた原稿になったので、年越にアップしてみました。
まあ、最近は映画レヴューしか書いていないから、こういうネタが珍しくていろいろ言ってもらえただけなんだろうとは思いつつ。

23周年なのでお題は「23」、それを語呂合わせで読みました。
発注してくれたのがシンコさんで、シンコさんも弟なので。




     『23』



 ある昼下がり、23が起きてこないことに気づいた。休日の昼には、食卓についたところで、私と母親が食べる上空でモデルガンをぶっぱなすようなことも何度かあったから、静かでいいと思ったが、それにしても静かすぎる。

 仕方なく起しに行って、布団ごしに押してみると、様子がおかしい。奇妙な感触。甲殻のように固い背中にぎょっとして、布団をめくってみると、そこには巨大な虫がわぎわぎしていた。たくさんの足がしょんぼりと光る。

 23は虫になったのだと、すぐに合点した。やたらめったら本を読む23には読書量が少ないとバカにされる私だが、カフカの『変身』ぐらいは読んでいる。

 やった、と思った。高校受験を前にした23に、母親はすっかり手をやき、「3年後にまたこんなことがあるなんて絶対に私もお2ちゃんも耐えられない。だから絶対に付属高にいってほしい。そうすると広美ちゃんは公立しかいけないけど、大丈夫よね」と決めつけられていたからだ。まだ中1なのに「ああ、自分でなんとかするから」と応じてしまっていたが、授業料の高い私立の付属高に進む虫は、いない。

 納得がいかないのは、なぜ23が虫になったのかだ。

 『変身』では、家族の面倒を懸命に見ていたつもりの主人公グレゴールが虫になってしまうと、彼に頼っていたはずの借金まみれの両親や妹が、自分たちで生きる手だてや希望を見つける。グレゴールの営為は無用だったという皮肉。

 だとしたら、この昼から数十年後、母親が男がらみの事業の失敗でつくった額面25億の借金を陣頭指揮をとって処分整理、その後の母親の介護も勇んで一手に引き受ける私のほうがずっと、グレゴールにふさわしい。自己陶酔じみた英雄願望で家族のヒーローを買って出る虫は、私だ。

 でも目の前で虫になっているのは、23だった。

 アレに似ていると思った。小学生の頃、よく漫画を描いていた23をまねて、私も一作だけ描いたことがある。『ゴキブリゴキコちゃん』。どんな話だったが忘れたが、とにかく絵がへたくそなので話の進みようがなかった。

 そんな私と違って、23は絵が上手だった。図画工作の宿題を助けてもらったことも何度かあった。こんなアイデアで描いてみたらどうか。描けない人間には、まずそのアイデアが浮かばないのだ。転校していく同級生の送別会の飾り付けに、怪獣の絵をたくさん描いてもらったこともあった。宇田川くんはとても喜んでくれた。

 そんなことを思い出したから、わぎわぎともどかしそうにしている虫の胴体をおこしてやろうと思ったが、難しい。胴体の下に腕を差し入れると、けもののような声で何か言っているが、聞き取れない。

 「『2001年宇宙の旅』で、HALはどうして異常な行動をとるようになるのか?」、そんなことを急に聞かれたのかもしれなかった。78年の6月、23がその質問をさあどうだと差し向けた頃、私たちは毎週FM東京で放送されていた『2001年宇宙の旅』のラジオドラマを聞いていた。23は原作をすでに読んでいたはずだが私は未読で、テアトル東京での再上映はその秋のことだ。「船長を好きになっちゃったから?」、バカげた答えだったから、ものすごくバカにされた。そのラジオドラマでHAL9000を色っぽいタメグチで演じていたのは田島令子で、『バイオニック・ジェミー』のジェミーがボーマン船長に恋をして発狂したのだと、私は思ってしまったのだ。

 よく一緒にラジオを聞いていた。淀川長治先生や小森和子おばちゃまの映画の番組とか。網膜剥離の手術で入院した30歳の時、耳の娯楽しか享受できない私に23が持ってきた見舞いは、淀長さんの映画解説CDだった。

 いつのまにか、虫はベッドから落ち、部屋を這いはじめた。母親にこの姿を見せてはいけない。夫と正式に離縁したばかりの彼女にとって、23は今やますます王子様なのだから。

 なにをどうしたのか、わからない。

 それから数十年の時間が飛び去り、気がついた時には、23は「アメリカ在住の映画評論家」を名乗っていた。死期が近い母親が病院のベッドで、23が電話出演するラジオ番組をうれしそうに聞いていた。なにかの新作映画の解説で『未来惑星ザルドス』に急に話がとび、ラジオを聞いている人の何人がピンとくるのかと私はあきれたが、洋画劇場で放送されたのを家族で観たことは覚えている。

 『変身』の最後で、グレゴールを残して家族は電車に乗る。目的の停留場に着いて立ち上がった娘の若々しい背中に、両親は希望を見る。

 私が思い出すのは、家のすぐ近くのバス停で過ごした時間だ。小学生の頃、私は母親とケンカして家を飛び出した。何度も。そして毎回、大きなガラス屋の前にあるバス停のベンチに座る。夜のことだ。バスが来ないのはわかっている。でも、もうここには居たくないのだ。店前に並べられた大きなガラスが倒れてきそうで、怖い。暗い。でもどこかに行ってしまいたい。そこへ23が迎えにくる。何を話したのか。とにかく私は立ち上がって、家に向かった。私の背中を見ている者はいなかった。一度や二度じゃなく。
by hiromi_machiyama | 2013-12-31 23:44 | 雑誌原稿アーカイヴ | Trackback
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放送作家・町山広美の日記
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